that passion once again

日々の気づき。ディスク・レビューや映画・読書レビューなどなど。スローペースで更新。

【dele #4】想念と贖罪

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『dele (ディーリー)』

第4話「超能力少年が隠した失踪事件」

監督:瀧本智行

脚本:瀧本智行

 

ラッドの野田くんの出演はとりあえず脇に置いといて、今回の第4話、例えば徳川埋蔵金!とかTVのチカラ!とか冝保愛子!下よし子!などが好きな人にはたまらない謎解きだったんじゃないかと思います。隠された石垣の向こうに明らかに人為的な空間が存在している。大きな水たまり、その先にある木の囲いを潜り、石段を上った先に犯人の手掛かりになる木製の細長いものがあるはず。呪われた家の裏庭に雑に埋められてしまった古い井戸がある。押入の天井裏に祀られているお札が悪さを呼び寄せている。そんなヒントとも当てずっぽうとも言えるキーワードを辿り、実際にそのものが存在していた時のなんとも言えない爽快感。まるで『ポートピア連続殺人事件』や『オホーツクに消ゆ』をクリアしたような、一種のゲーム感覚とでも言いましょうか。天才超能力者 日暮裕司が残した12枚の絵には、そんな謎解きアハ体験の魅力が詰まっていました。

さらに昭和チックな雰囲気を演出していたのがVHSのような粗い画像と、岩崎太整さんなのかDJ MITSU THE BEATSが作曲したのかわかりませんが、哀愁が漂う70年代フォークのようなギターのフレーズです。この音楽の効果も相まって、日暮少年のオカルティックさ、そして、失踪した母親という艶めかしさがより際立っていました。

ブログなどでドラマの感想を見ていると「切ない」とか「泣けた」とかの意見がほとんどだったのですが、すいません、僕はどうもそういう印象が薄かったです。どちらかと言うと、上記のように昔に流行ったオカルト系の番組の面白さを踏襲しただけの、ちょっとマジメな『世にも奇妙な物語』みたいな印象です。

 

人気ロックバンド RADWIMPS のボーカルである野田くんが出演すると聞いて、さてさてどんな棒読みが始まってしまうんだ?と不安だったのですが、セリフは冒頭のモノローグだけで、あとは死んでいます、背中を丸めて立ち去ります、森の中に立っています、最後はお辞儀します、とあえて無言の演技が続き、ああ、よかったと一安心。ぬぼーっとしているのが、逆に切なさを誘ったんでしょうか。逆に「ありがとう」とか要らぬセリフを喋ってみようものなら、今回の第4話の雰囲気は総崩れしていたかもしれません。あえて喋らせない。そう判断した瀧本監督が正しいと思います。

第1話の般若の鬼気迫る悪徳刑事はとりあえず怖い人で終わらせ、第2話のコムアイのスピーチも不思議ちゃんオーラで乗り切り、そして、この野田くんは無言。『高嶺の花』に出演している銀杏ボーイズの峯田くんもそうですが、ここんところミュージシャンが役者としてドラマや映画に出演することが目立ってきました。峯田くんは、まだ役者としても数々の作品に出演しているし、その乙女んぶりも話題になっていていいキャラだったりするのですが、野田くんは役者より音楽をやっててほしい気がします。今度、映画にも出るんでしょ?巷のEXILEとか韓国アイドルじゃないんだから、言葉とメロディで僕たちを圧倒して欲しいですよね。

 

物語も佳境に差し迫ると、なんで美香さんのお母さんはこんな不幸な目に合ってしまったのか?という疑問が浮かんでくるのですが、それも結局は、てやんでい!とちょっと勢いがつき過ぎてしまっただけでしたというオチで、いやいや、それじゃあ、まるで階段から落ちて死んでしまった "くいな" じゃないか!と。ゾロが世界一の剣豪を目指す理由のためだけに階段から落ちてしまったように、仕事で家庭を顧みなかった重治さんに、もう少し家族や娘の事を考えなさい!っと諭すためだけに勢いがついちゃったみたいな。第2話の突然死、第3話の爆破事件と、なかなかこのドラマは物語のキーになる部分をさらっと流して、どちらかと言うと、その結果に重きを置いている節があります。

そもそも第3話の学生運動、第4話の超能力少年と、どこか昭和を感じさせるキーワードが立て続けに語られていました。無邪気な祐太郎くんは別として、この辺の物語はケイの過去に何かしらの意味合いがあるのではないかと感じ始めています。少年時代のヒーローが超能力少年だったというのも、何かしらの事件、もしくは暴力から解き放たれるために圧倒的な力を欲した。もしくは日暮裕司と同じように、いなくなってしまった母親を探し出そうとしていたのかもしれません。その母親像を第3話の江角幸子さんの会話に重ね合わせていたのだとしたら、ケイが浦田さんの机で真摯に耳を傾けていた理由も納得できます。

そんなんで次回はケイの元カノが登場だそうです。他者との干渉を極端に避けているケイ、その背景が少しずつ語られていくのでしょうか。

 

しかし、出社する時、必ずビルの向かいにある神社に柏手をしている祐太郎くん。いい子だなぁ...。何に感謝をしているんだろ?もしくは何を願っているんだろ?

【dele #3】追憶と喪失

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『dele (ディーリー)』

第3話「28年の逃亡犯と監視された女」

監督:瀧本智行

脚本:青島武

 

前回までもそうでしたが、この「ディーリー」の魅力の一つが "映像美" です。深夜枠のテレビドラマとしては贅沢なくらいに毎回毎回、極上のショートフィルムを観ているような感じ。公式サイトのイントロダクションでプロデューサーさんが語っているようにオムニバス的な短編映画を毎回観ているようで、まあ、とにかく素晴らしいです。

そんな中でも、この第3話はパトリス・ルコントの『髪結いの亭主』『仕立て屋の恋』を彷彿させるヴィジュアルが抜群でした。寂れた港町の商店街があんなに魅力的に見えるものかと。舞台となっているのが写真館とか理髪店というのも雰囲気を冗長させています。さらには余貴美子さんが微妙にエロい。微妙にね。とても還暦を超えてるとは思えない熟女っぷりは、その手の趣味の人にはたまらなかったのではないでしょうか。ひと気のない理髪店で、行かず後家が白衣を着て身体を摺り寄せてくるとあっては...、ねえ?

 

物語は写真館を営む浦田さんが「dele.LIFE」を訪れてくるところから始まります。内容は「パソコンのデータを削除するのと併せて、削除する前にデータをコピーし、バラの花と一緒に江角幸子さんに届けてほしい」というもの。なんともキザな依頼ではないですか。でも、ウブな祐太郎くんは「ロマンチックじゃな~い」と有頂天。若いな。

そもそも冒頭で指名手配のポスターがクローズアップされたところで、この "五藤卓" という人物が何かしらの軸になりますよ、と説明されていたわけでして。で、蓋を開けてみたら、学生運動の "爆弾闘争による革命" を標榜していた過激派組織のメンバーで、彼は1975年に起きた外務省の外郭団体を爆破した事件の容疑者でした。

この "学生運動" と "バラ" というキーワードから思い浮かべることができる人物はただ一人しかいません。そうです、アドリア海飛行艇乗りのマドンナであるジーナさんこと加藤登紀子さんです。その代表曲「百万本のバラ」も物語の重要なキーワードとして登場します。

しかし、その "熱い時代" に何があったのかが描かれることはありませんでした。舞さんが語っていたように「テロ対策にAI導入するご時勢」で、まるでストーカーのようにただただ盗聴を繰り返すだけの捜査は "時代遅れ" なことなのです。

ドストエフスキーの『悪霊』で描かれていたペトルーシャのように、何かしらの革命を起こし名声を欲した季節は既に過去となり、熱く燃え上がった焚き火の跡で静かにくすぶっている仄かな熱は、何気ない日常の繰り返しの中で "幸せ" という時間を愛おしむようになっていく。ケイが疑似体験した28年間の "幸せ" は、そんな時間の積み重ねでした。このシーン、本当によかったなぁ。それが "5本のバラ" につながってくんですもん。

 

ラストの麹町の何気ない人々のシーンがヤバイです。

43年前、時代の変革を志して犯罪に身を賭した結果、果たしてここに存在するのは夢見ていたユートピアなのだろうか?そんな想いに囚われていそうな幸子さんのなんとも言えない表情にグッときます。それを見てケイは祐太郎くんにバラを渡せ!と煽ります。そうなんです。幸子さんの時間は決してムダなものではない。決して時間が止まっていたわけでもない。ここにあなたがいる。それ以上でもそれ以下でもない。それが素晴らしい事なんだと。いいドラマじゃないかぁ...。

【dele #2】確執と溶解

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『dele (ディーリー)』

第2話「ダイイングメッセージの真相」

監督:常廣丈太

脚本:渡辺雄介

 

前回、クールな思考回路で綿密な計画性を組み立て、巧みな車椅子捌きで悪徳刑事をギャフンと言わせたケイ。相棒の祐太郎くんとは真逆で、感情表現をまったく表に出さない彼ですが、今回、なんとヘッドフォンで音楽を聞きながらノリノリではないですか。しかも、そのノリがえげつない。こういう人いるよね、セカイに入っちゃってる人。

「ニワトリがいますよ」と舞さんにLINEする祐太郎くん。首がコケッコケッと動くからニワトリなのか、そもそもの弱虫くんをもじってチキン呼ばわりしたのかは謎ですが、いずれにしてもニワトリやハトって、なんで首をクイクイ動かしながら歩くんでしょうね。疲れたり、肩が凝ったりしないのかなぁ。

今回の依頼人は宮内詩織さん(コムアイ)。死亡確認のために自宅まで行ってみたら、部屋には音楽機材がビッシリ。そんな中で無残に倒れている彼女の手元には "エンディングノート" があり、そこには走り書きのメッセージが...。

この "エンディングノート" は、以前、舞さんのもとに遺言書の相談で詩織さんが訪れた時に作成されたものらしい。「25才になったら遺言を残そうと思っていた」と語る詩織さん。病を抱えていたのか、それとも自殺を企てていたのか、いずれにしても "死" を覚悟していたことは明らかです。

身元を確定するためネットで詩織さんのことを調べてみると、その昔、ピアノコンクールで優勝するほどの実力者だったことが判明。父親はフィルハーモニー交響楽団の指揮者で、数々の賞を受けるほど。自宅にも賞状やトロフィーが飾られています。ですが、そこに華やかさは存在しません。友人と偽って訪れてきた祐太郎くんに、詩織さんのお母さんはお通夜に他の友人を連れてきて欲しいとお願いします。しかし、それを快く思わない父親の影も...。どこか不穏な空気を感じます。

頼まれると断れない祐太郎くん。ボールペンの名入れから "bar GAFF" というガールズバーに辿り着き、そこで詩織さんが働いていたことが明らかになります。しかし、バーにいる人たちはどこか他人行儀で...。

 

てなわけで、2話目にして "エンディングノート" が登場。通常は高齢者の方々が子供や近親者に、例えば遺言書の有無、延命処置の有無、借金はいくらあって、葬儀には誰々を呼んで欲しい、助かるのはネットなどのIDやパスなど、急に旅立ってしまった時に残処理がしやすいように残したりするものらしいのですが、それをまだ20代の詩織さんが考えているというのは、明らかに何かしらの "死" を感じさせる理由があったからだと思われます。

物語後半で明らかになる "生前葬" も、バラエティ番組の企画で往々にして第二の人生をスタートするために半分おふざけで行ったり、死期が迫った大御所の方々が感謝の意を込めて執り行うものですが、そこにも "死" を予感させる何かがあります。

詩織さんと両親の間にどんな確執があったのか、具体的なシーンや物語はあえて表現されていませんでしたが、この "迫りくる死" が何かしらの要因になっていたのではないかと推測することができます。そして、詩織さんの母親も、その "迫りくる死" を知っていた。

祐太郎くんには「小さい頃から身体が弱かった。急性心不全だった」と語っていますが、たぶん "迫りくる死" の正体は心臓病であり、それを知っていた母親は、だから友人がいたのなら、お通夜に来て欲しいと切に願ったのかもしれません。知らなかったのは交響楽団の仕事で忙しかった父親だけみたいな...。そして、自分と同じ道を歩ませようとする父親に反発し、詩織さんは残された限りある時間の中で、自分のやりたい音楽を創作するため家を飛び出た。母親はそれを父親が理由で音楽が嫌いになったからだと思っていた。この辺の夫婦のすれ違いも物語が進むことによって溶解していきます。

 

ニワトリ ケイが酔狂していた音楽が伏線となってガールズバーにまとまっていくのも楽しかったですね。バンド名は "The Mints"。単純にミントの複数形と解釈することもできますし、"新しいもの" "解毒" なんていうちょっと穿った意味をねじ込めることもできそうです。

そんな "The Mints" の曲が「Pretend」。ケイが「刺激物だらけのデザートみたいな音楽が多い中、本当の音楽をやろうとしている稀有な存在。この曲を初めて聴いた時、衝撃で逆に立ち上がってしまうかと思った」と熱く語るほどの名曲らしいのですが、この曲の作詞を担当していたのが詩織さんの友人である紗也加さん。「偽ります」なんていう曲名をつける辺り、過去の確執から姿を隠して生きていく姿が垣間見えてきますが、それは詩織さんも一緒だったようです。

 

最終的に、詩織さんの想いは家族や友人たちに、ほんわかとした暖かな溶解を与えるのですが、ケイが最後に放った一言がやけに突き刺さります。

「復讐」

父親が思い描いていたように生きる道ではなくても、私は立派に幸せだったんだ。その想いはケイにも通じるものがあるようです。"The Mints" の曲と同じように。

【dele #1】正義と欺瞞

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『dele (ディーリー)』

第1話「死後、不都合な記録を削除致します」

監督:常廣丈太

脚本:本多孝好

 

てなわけで、もともと本多孝好氏が大好きで、デビュー短編集『MISSING』から事あるごとに読み続けているのですが...。6年前の『ストレイヤーズ・クロニクル』のライトノベルチックな世界観についていけず、それからとんとご無沙汰をしておりました。

そんな本多氏の最新作がテレビドラマで映像化される。しかも出演者がまあ見事なくらいに豪華。そして、本多氏自らが脚本も手がけるとあっては観ないわけにはいきません。で、様子を観ながら4話目まで来たのですが、これは前期の『コンフィデンスマン』に続いて、毎週毎週楽しみにできる作品にまたまた出会えましたよ!と。

 

「あなたが死んでも、スマホ・PCは生きている...。不都合な記録、削除(=dele)いたします」

 

主人公は山田孝之さんが演じる坂上圭司ことケイ、その相棒に菅田将暉くんが演じる真柴祐太郎。ケイのお姉さんで弁護士の麻生久美子さんこと坂上舞さま。この3人を軸にデジタル遺品を巡って、依頼人の人となり、その人生と死を1話完結で描いています。

本多氏のデビュー作『眠りの海』から綿々とテーマにされている "死" というものを、相も変わらず優しい視点で描いていることにめちゃくちゃ好感がもてる作品で、ご都合主義とか王道過ぎるとか春樹チルドレンはこれだからダメだとか、そんな野次は無視して純粋に楽しめるエンターテイメントになっています。

 

注目の第1話の依頼人は三流の週刊誌記者。なんてことのないゴシップ狙いの記者が、実は警察絡みのとんでもない悪事の真相を追っていたという筋書きで、ハラハラドキドキの追跡劇が展開、ドラマの第1話らしい仕上がりになっています。

ゲストで登場する般若氏も、敬愛する長渕剛ばりの強面で好演。普通におっかないですわな、街で出くわしたら真っ先に視線そらすわな!

今や国民的な "みんなの末っ子" 菅田くんも、その襟足もうちょっと切った方がスッキリするんじゃない?なんて思いながら観ていましたが、なかなかにその愛嬌っぷりがこのドラマの軸になっていていい感じです。『銀魂』の小栗旬くんが、もともと "みんなの末っ子" だったように、菅田くんもそのうち「ま~きの!」なんて言いながら兄貴風を吹かすようになるのかと思うと楽しみです。

CMではおちゃらけ役が多いのに映画やドラマになると急に寡黙な好青年を演じだす山田先生、今作も多分にもれずブスッとしてなんの可愛げもありません。オレはできる男、オレはクールな男、オレは無表情で笑える男、そんな感じで口元はピクリとも上がりません。なぜ、車椅子に乗っているのか。なぜ、姉弟で同じビルの中で働いているのか。そもそも両親はどうしたのか。原作を読んでいないので、その辺の事情はこれからの楽しみになるのですが、そこは本多氏のことです。たぶん、それなりの理由があるはずだと安心しています。菅田くん演じる祐太郎の過去もなかなか波乱がありそうですが、まあ、他局で放送しているような児童虐待とか、そういう類の辛い話はあまり見たくないなぁ。ドラマを見ている間だけは、現実の悲しい出来事は忘れたい。それでも現実を見ろと言うならニュースを見ればいいわけで、ね、ドラマや映画では現実以外の楽しみを味わいたいじゃないですか。

そんな中での麻生久美子さまですよ。おキレイですね。目の保養ですわ。

映画「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」を観た

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【作品情報】

タイトル:MISSION:IMPOSSIBLE - FALLOUT

監督:クリストファー・マッカリー

脚本:クリストファー・マッカリー

日本公開:2018年8月3日

上映時間:147分

 

たぶん、前作の『ローグ・ネイション』以来の映画館での鑑賞です。早いものです。あれからあっという間に3年が経ってしまいました。その間、映画館で観たい!という作品になかなか出会えないのも残念な感じでもあります。

2011年のリブート作『ゴースト・プロトコル』からずっと感じていることではありますが、ダニエル・クレイグ版『007』との類似がありすぎて、いっそのこと『007』にしてしまったらいいんじゃないかと...。そう思っていたら、海外のファンも同じようなことを感じていたようで...。

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『スペクター』だよ。まさしくって感じですわ。こう見るとダニエル・クレイグの方がかっこいいなぁ、なんて思ってしまいますが...。

しかし!今回の『フォールアウト』は違いましたよ。トムクル好き、M:Iシリーズ好きは必見!ほとばしるセルフ・オマージュがたまらない作品になっていました。もしかしたら年齢も年齢なので、無理なスタントが厳しくなってくるとすると、M:Iシリーズもこの『フォールアウト』が最期なのかもしれません。いや、わからないですけどね。でも、そんなニュアンスを感じるくらいに、まとめに入ってる感をバリバリ感じますので、映画館の大画面で観れるのはこの夏休み中だけ!ってことで、見逃し厳禁な作品になっていました。

 

そもそもトム・クルーズ制作の『ミッション:インポッシブル』シリーズというのは、いろんな映画へのオマージュを込めた作品シリーズで、その最たるものが前作の『ローグ・ネイション』だったわけです。第1作目から振り返ってみると、

1.『ミッション:インポッシブル』1996年

基盤は人気テレビシリーズだった『スパイ大作戦』のリメイクですが、ブライアン・デ・パルマの『アンタッチャブル』、『ダイハード』のアクション、そして、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったヨーロッパ系の俳優、エマニュエル・ベアールジャン・レノを揃え、さらにはサントラがイギリス勢のアーティストばかりという、トムクル渾身のオシャレ・アクション・スパイ映画。

2.『M:I-2』2000年

アイズ・ワイド・シャット』の出演で溜まりに溜まった鬱憤を晴らすため、スパイなんて知ったことか!と、思いっきり『男たちの挽歌』を地で行ったハイテンション映画。知的さは『羊たちの沈黙』のレクター博士に任せ、『ターミネーター2』よろしく悲劇のヒロインを救うため超ハイセキュリティな施設へ乗り込み、最後は『燃えよドラゴン』なみにドドン!と海辺のバトル。この知能指数ゼロがウケて興行成績No.1。ゴリゴリのハードロックばかりを集めたサントラもバカ売れ。

3.『M:i:3』2006年

ソファの上でピョンピョン跳ねちゃったものだから一気に人気が低迷。前作『M:I-2』のやりすぎも反省して『スパイ大作戦』の原点回帰と言いながら、同じテレビシリーズの『24 -TWENTY FOUR-』や『CSI』を拝借、監督もテレビドラマ出身のJ・J・エイブラムス。完全に映画がテレビドラマに抜かれてしまったことを如実に表していました。そんな中、映画畑の同士として『マグノリア』で共演したフィリップ・シーモア・ホフマンがトムクルを応援。この人がいなければ終わっていました。

4.『ゴースト・プロトコル』2011年

テレビでは味わえない体験を映画館で!ということで開発されたのがIMAXシアター。ソファ事件から5年の歳月をかけてじっくりと再起を狙っていたトムクルは『ダークナイト』や『カジノ・ロワイヤル』のリブートブームに便乗。M:Iシリーズも生まれ変わるぜ!と、とことん『007』の世界観を拝借した結果、奇跡の復活、シリーズ最高収益となりました。

5.『ローグ・ネイション』2015年

もうなんでもありになったトムクルは往年の名作映画をとことんオマージュ。引き続き基盤にしている『007』はMI6の登場でいよいよ区別がつかなくなり、コメディ要素は『リーサル・ウェポン』のバディムービーを、『第三の男』や『市民ケーン』などオーソン・ウェルズを彷彿させるシーンが何度も登場、これは "嫌われ者" を逆手に取ったトムクルなりの皮肉かもしれません。極めつけは映画のポスター。

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往年のアクション映画を彷彿させるこのデザイン!カッコええ!

と、こんな感じで、良く言うとオマージュ、悪く言うとパ〇リまくっているシリーズが『ミッション:インポッシブル』になるわけです。前5作がそんななので、当然第6作目もそうなんだろうと思って久々に映画館に行ってみた訳なのですが...。

 

とにかく『フォールアウト』はこの前5作を総括しています。今までいろんな映画を吸収してきたシリーズが、ここに来てまさかのセルフ・オマージュ。それがいい感じでまとまっているのです。第1作目の "マックス" や、2作目のアクション、3作目の "ジュリア" に、4作目の "重要建造物の爆破"、5作目の "CIAとMI6" そして "ソロモン・レーン"。あまり列挙してしまうと、映画館での楽しみが半減してしまうので、あとはご自分の目でお確かめください!予習も忘れずに!『フォールアウト』を観た後は、復習でまた過去シリーズを観たくなること請け合いですぞ、姐さん。

深読みツイン・ピークス⑤ ドッペルゲンガー section 3

「The Return」を解読するための旧ツイン・ピークス巡礼の旅シリーズ

第4回「ツイン・ピークス シーズン2を深読みしてみる」

 

第5章「次に会う時の私は私ではない」

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ウィンダム・アールの後を追って、ブラックロッジに足を踏み入れたクーパー捜査官。そんな来訪者を出迎えたのは前回考察した "ミロのヴィーナス" でした。そこでの結論は、ミロのヴィーナス=アルルのヴィーナス=蛇女リリスであり、アフロディーテリリスの二律背反が産み出した世界が "恥じらい"、原罪を背負わされた僕たちの世界であり、ブラックロッジに "恥じらいのヴィーナス(メディチ家のヴィーナス)" が存在する理由になるというものでした。しかし、この解釈は当然のように『The Return』以降の考え方であって、今から約30年前にデイヴィッド・リンチがこのような諸悪の根源を描くためにミロのヴィーナスを配置したのか?と問うと甚だ疑問です。自分の解釈を自ら覆すようではありますが、たぶん発想の根源はもっとシンプルなもので、アフロディーテつながりで単に配置しただけ、特に意味はない。アメリカン・スピリットを吹かし、コーヒーを口に運びながら、そう言って笑われておしまいのような気がします。

旧シリーズの第16話でローラ・パーマー殺人事件がひとまずの解決を見ると、視聴者の興味は急激に失せていき、結果、シーズンは打ち切りとなってしまいました。しかし、リンチやフロストはシーズン3の制作に意欲的で、その汚名挽回と資金調達のためにプロジェクトを発足、それが映画『ローラ・パーマー最期の7日間』でした。マーク・フロストは、このプロジェクトがここまで罵詈雑言を浴び、たった400万ドルしか興行収入を得られないとは予想もしていなかったと後に語っていますが、その発言の裏を返せば、潤沢な資金のもとで悠々とシーズン3を制作するための伏線が、この最終話のブラックロッジに凝縮されていると解釈できるのです。シーズン1の最終話である第7話と同じように、とにかく続きが気になるように詰めるだけ詰め込んだと。

さらにツイン・ピークス以降のデイヴィッド・リンチの世界を構築したのも、この旧シリーズの最終話が起点だと言われています。この第29話のブラックロッジのシーンがなければ、後の『ロスト・ハイウェイ』も『マルホランド・ドライブ』も『インランド・エンパイア』も存在しなかったと。今回のテキストでは、そんなリンチの深層的な世界を出来る限り覗き見てみようと思います。

 

3.死者の国

ミロのヴィーナスが鎮座している通路を進み、真っ赤なドレープをくぐった先にはクーパーが "夢" で見ていた部屋がありました。スタン・ゲッツのような気怠いサクソフォンの音色に導かれ、スポットライトを浴びてステップを踏むのは "別の世界から来た男"。彼がソファに座ると、伝説のジャズ・シンガー、ジミー・スコットが憂いを秘めたソウルフルな歌声を披露します。

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ここで歌われている「シカモアの木」の歌詞を見てみます。

 

"Sycamore Trees" by Jimmy Scott

 

And I'll see you

(私はあなたに出会う)

And you'll see me

(あなたは私に会う)

And I'll see you in the branches that blow

(風になびく枝の中にあなたを見る)

In the breeze

(そよ風の中に)

I'll see you in the trees

(私は木の中に あなたを見る)

I'll see you in the trees

(木の中に あなたを見る)

Under the sycamore trees

(シカモアの木の下で)

 

ホワイトロッジの考察で、夢見人はジャック・ラビット・パレスであり、そのダグラスモミの木がホワイトロッジであるという結論に至りましたが、それと対を成すとするなら、ブラックロッジはシカモアの木の中にあると解釈することができそうな歌詞です。もしくはダグラスモミの中にあるホワイトロッジ(神聖なる者)をシカモアの木の下で求めているブラックロッジ(汚された者)の姿とイメージすることもできます。『The Return』以前では、単に森の中に姿を消してしまったローラ・パーマーを追い求める詩として解釈されていましたし、中にはジョシーの事を歌っているんだとそのまんまなことを語る人もいました。T.S.エリオットのように、森の奥深くに潜む邪悪なものへの憧憬を詠った詩という見解が、僕的にはいちばん的を得ているのではないかと思っています。

そして、その歌を歌うジミー・スコットは "天使の歌声" と称賛され、変声期に声変わりをしていないため、男性とも女性とも、はたまた両方を兼ね備えた第三ジェンダーとしての奇跡の声でもあったのです。所属するレコード会社と不条理な契約を結んでしまったため、20数年間表舞台から姿を消していましたが、この最終話での歌唱シーンをきっかけに各界から絶賛の声が上がり、66才にして奇跡のカムバック。まるで死者が蘇ったかのような、そんなシーンになっています。リンチ監督がそれを意図していたかどうかはともかく、男性とも女性とも言える "二面性" というキーワードがさらりと隠しこまれている点が見逃せません。

さらには『The Return』でロードハウスの司会者として登場した彼。

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思い過ごしでしょうか?ジミー・スコットと同じ恰好をしています。しかも、スタンドマイクの先には松ぼっくり。完全にロードハウスのステージはダグラスモミの中にあるとでも言いたげではないですか。となると、ブラックロッジの待合室とロードハウスのステージは同じ意味合いを持つものであると解釈することもできるのです。そんな視点で『The Return』のロードハウスでの出来事やライブを見てみると...。

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どうやら、このスポットライトの色に何か意味がありそうです。夢と現実を区別する色とでも言いましょうか。しかし、このZZ TOPでノリノリなところは、何回見ても最高ですよね。

 

ツイン・ピークス第2話でクーパーが見た "夢" の世界、その赤い部屋(RED ROOM)にとうとう彼は現実世界として辿り着きました。意外かもしれませんが、序章を含めて全30話ある旧シリーズの中で、この赤い部屋が舞台になるのは第2話と第29話のみになります。もちろんインターナショナル版のエンディング舞台でもありますが、第2話とイコールで結ばれることは以前に語った通りです。こうして俯瞰してみると、運命に導かれてツイン・ピークスへとやってきたクーパー捜査官が、夢のお告げに従い、最終的に "夢の世界" に辿り着いたというストーリーラインが見えてきます。

その "夢の住人" であるスーツを来た小人 "別の場所から来た男" は、革張りのヨーロピアンソファに腰かけ、クーパーと対峙します。彼は開口一番、奇妙なことを語り始めました。

「次に会う時の私は私ではない」

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そう言って立ち上がると、まるで時を巻き戻すかのようにステップを一回踏み、何事もなかったかのように再びソファに腰かけます。この一連の動作は、既に小人がこの時点で別の何者かに人格が切替ったことを現わしています。

リーランド・パーマーを筆頭に、ハロルド・スミス、ネイディーン・ハーリー、ベンジャミン・ホーンなど、ツイン・ピークスという作品には二重人格者、もしくは解離性同一性障害を抱えるキャラクターが複数存在します。その描かれ方は "善と悪" 、"慈愛と狂気" 、"天使と悪魔" といった両極端で描かれ、いずれにしても一貫しているのが人間の "二面性" を暴き出すというテーマになります。ユング的な解釈をするとペルソナとシャドウ、光と影ということになります。このテーマは『ロスト・ハイウェイ』のフレッド・マディソン、『マルホランド・ドライブ』のベティ・エルムス、『インランド・エンパイア』のニッキー・グレイスへと綿々と引き継がれていき、最終的にデイル・クーパーに帰納します。

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この "二面性" というのは紙一重であるとトレモンド夫人の孫の考察で語りましたが、わかりやすいのが上記の画像です。自己啓発やビジネス書などで、ものの考え方や捉え方について説明する時に必ずと言っていいほど頻繁に登場している絵ですが、若い女性の後姿にも老婆にもどちらにも見える。どちらも同じ存在であり、どちらかを見ている時は片方を見ることができない、そんな構造になっています。そして、デイヴィッド・リンチの世界というのも同じ構造になっているのです。

 

人格が切替わった小人は、先ほどとはまるで別人のような穏やかな表情で、この赤い部屋について「ここは待合室(Waiting Room)だ」と語ります。そして、来訪者に親しみを込めてコーヒーを勧め、クーパーの友人がここにいると伝えます。コツコツと小気味良い足音と共に現れたのはローラ・パーマー。その姿はクーパーが "夢" で見ていたその姿であり、黒いドレスにその身を包んでいます。

「こんにちはクーパー捜査官」

そう挨拶するとローラは奇妙なハンドサインを示します。

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このハンドサインは仏教の印相の一つ「降魔印」を現わしています。由来はお釈迦様が悟りを開いた際に悪魔を追い払った印であり、エンガチョやエンピバリアのもとであったり、魔貫光殺砲の元ネタでもあったりします。簡単に言ってしまうと「悪魔よ、去れ!」「悪魔よ、滅びろ!」そんな意味になります。ただ、ここで矛盾が生じます。ピッコロが大魔王でありながら神様であるのと一緒で、ローラも天使でありながら悪魔でもあるのです。この理論については後述しますが、悪魔であるローラがこのサインを示したということは、降魔印と真逆の印が示されたことになります。「神よ、死ね!」「神よ、立ち去れ!」

さらにクーパーの "夢" を肯定するかのようにローラは「25年後にまたお目にかかりましょう」とささやきます。このセリフは、あなたの夢の中の世界を私たちはちゃんと知っていますよ。あの夢がなぜ25年後だったのか、その意味があなたに理解できる時が来ましたよ。そんな風に解釈することができます。『The Return』がリアルに25年後に復活したのは、ただの偶然であり、ある意味、このセリフがなければもしかしたら永遠に復活しなかったかもしれません。

さらにローラは「それまでは... (Meanwhile...)」と呟き、奇妙なポーズをとります。

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このポーズは観世音菩薩、特に弥勒菩薩のポーズを喚起させます。チベット仏教ではダライ・ラマの化身としても有名です。

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ただ三昧耶形を見ると薬壺を手にしているようにも見えるので薬師如来ではないかとも思えます。詳しいところは内藤仙人さまにとことん解説してもらいたいところではありますが(とにかく仏教や密教はいろんな仏様がいてややこしいのです)、僕の浅はかな知識で結論を導き出すとするなら、薬師如来のハンドサインに似た "施無畏印" を現わしているのではないかと思います。その意味を簡単に言ってしまうと「あなたの願いを叶えましょう」と。

ローラが現れてからの流れをまとめると下記のようになります。

 

    「こんにちはクーパー捜査官」

           ↓

 「あなたのそのパワーを封じて差し上げましょう」

           ↓

    「では、25年後まで、さようなら」

           ↓

「それまではあなたの欲望を叶えて差し上げますよ」

 

そして『The Return』の冒頭で、このシーンがリフレインされます。そもそも殺されたはずのローラ・パーマーがなんの違和感もなく登場していることに、このブラックロッジの世界観がどのようなものであるかが如実に現われていると言えます。この後、次々と登場する人物たちも既にこの世を去っている人物たちであり、ここが "死後の世界" 、もしくは "生と死の狭間の世界" であると解釈できるのです。ダンテの『神曲』に例えるなら、グラストンベリー・グローブが "地獄の門" であり、このブラックロッジは "辺獄" の世界であると言えます。僕が度々語っているクーパー巡礼の旅は、この第29話から既に始まっていたのです。

 

ローラ・パーマーが姿を消すと、次にウェイターが登場します。どうやらコーヒーの準備が整ったようです。相変わらずの愛想の良い笑顔を振りまくと、アワワワワワとインディアンのような合図をし「ハレルヤ!」と楽しそうにしています。

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まるでクーパーという生贄が現れた事を喜んでいるようにも見えますし、お待ちかね、私が登場しましたよ!と無邪気に騒いでいるようにも見えます。ここで、この "インディアンの合図" を掘り下げてみます。インディアンと呼ぶか、ネイティブアメリカンと呼ぶかは、この際脇に置いておきますが...。

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映画『ローラ・パーマー最期の7日間』では、小人が同じようにアワワワワワとしています。この時の小人のセリフはこうです。

「私が誰だかわかるか?私は腕だ。そして、私はこんな音がする」

インディアンのアワワワワワという音と小人が同じというのはどういうことでしょうか?さらに『The Return』の第2章でも同じセリフが繰り返されます。

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25年が過ぎた未来でも小人=腕は同じ音がするそうです。

そもそも本来のインディアンは口に手を当ててアワワワワワなんてしていなくて、この仕草は西部劇などでカリカチュアされたものが広義的に解釈されたものでした。アワワワワワとは戦いなどで士気を高めるための奇声であり、敵が攻撃してきたことを知らせる警報の役目でもありました。その音が小人から発せられるということは、魂の高揚、もしくは未知への恐怖、それらが小人そのものの具現化だと言えそうです。そして、それをウェイターが先陣を切ってアワワワワワとしているということは、少なからず、クーパーを敵とみなしている、もしくは獲物を見つけたということになりそうなのです。

さらにインディアンたちには死者の力を借りるというゴーストダンスや、"死" そのものが存在しないと考えている民族であったりと、ブラックロッジの概念に近い思想があります。さらにフクロウの洞穴に描かれていた地図もインディアンが残した遺物として扱われています。

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ここに記されている一つ一つのシンボルが何を意味しているかをここで事細かに説明するつもりはありませんが、インディアン関連で考察をするなら、真ん中下にデカデカと書かれているシャーマンマスクになります。

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このシャーマンマスクは、インディアンに限らず、世界各地の土着の民族が呪術的な祭事に使用するもので、日本では卑弥呼、現代では秋田のナマハゲや宮古島パーントゥなど、多くが神や精霊の力を利用して悪を追い払う役目をしています。その祭事でよく見かけるのがアワワワワワってしながら火の周りで踊っていたり、もしくは神に生贄を捧げるため火をもって血なまぐさい儀式を執り行ったりと、なかなかに穏やかでないことがほとんどです。

そんなシャーマンマスクがフクロウの洞穴に描かれていたということは、ブラックロッジ、もしくはホワイトロッジが森の精霊たちの集まる場所であり、インディアンたちはそこから何かしらの力を借りていたということになります。逆を言うと、そんなインディアンたちに力を与えていた、もしくは災いを起こしていたものがブラックロッジの住人になり、それが小人であったりボブであったりということになるのです。

では、その中にウェイターが入り混じったというのはどういうことでしょうか?

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プルプル震えた手で来訪者にコーヒーを差し出すウェイター(あれだけプルプル震えていたらコーヒーがこぼれて仕方なかったのでしょう、あらかじめコーヒーは固められています...)。コーヒーに目を輝かせるクーパーですが、その間にウェイターは巨人に姿を変えます。そして、こう語ります。

「我々は同じものだ(One and the same)」

英訳の妙ですが「我々は一つである」「全く同じものだ」そんな意味になります。ウェイターが小人の音を鳴らしたのは、お互いが同一のものだからということになりそうなのです。先ほどのフクロウの洞穴の地図にも小人と巨人が並んでいる姿が描かれていましたが、この二人が同一であるというのは『The Return』を経た今となっては解せない部分が多すぎます。

そもそも第8話で突如クーパーの前に姿を現わした巨人は3つの啓示を与えると、私の言うことを信じたら返してあげようと、クーパーの小指に嵌められた指輪を奪っていきました。その3つの啓示とは、

1.笑う袋の中に男がいる(ジャック・ルノーの死)

2.フクロウは見た目とは違う(ボブとリーランド)

3.薬品なしで男は指さす(片腕の男マイク)

以上になるのですが、どれも的を得ません。最終的に第16話でボブの謎に辿り着いたのは「いい知らせだ!あんたの好きなガムがまた流行るぞ!」という第2話の夢の中で語っていた小人の暗示でした。巨人、関係ないやん!しかし、よくぞ謎を解き明かしたとばかりに、奪われた指輪はクーパーのもとに帰ってきます。

これも小人と巨人が同一のものだからということでしょうか?よしんば、そうだと100歩譲ったとしましょう。だとしたら、小人はクーパーの味方なのでしょうか?

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巨人はあっという間に姿を消し、小人は何やらゴニョゴニョゴニョとまじないのようなものを始めます。すると提供されたコーヒーは凝固し、次は通常の液体に変わります。さらに最後はドロッとした粘着系の物質へと変化しますが、これはボブの力によるもののようです。そして、小人は叫びます。

「スゲエな、ボブ!(Wow, Bob, Wow!)」

こんなキチガイじみた人物が味方なわけがありません。となると、先ほどの巨人やローラ・パーマーは小人が呼び出した幻ということになりそうです。巨人の口から「小人は同一である」と言うことによって、どこかクーパーを安心させようとした節があるのです。もしくは同じ "霊的な存在" であると言いたかっただけなのかもしれません。

さらに、このゴニョゴニョゴニョという擦り手のまじないと、キーンという異次元からの音は、第2話の夢の中でも同様のジェスチャーとして登場しています。

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この時はコーヒーの悪戯ではなく、宇宙からの使者である "鳥"(ムナオビツグミ、もしくはフクロウ)を呼び出し、そこから受けた啓示が先ほどの「いい知らせだ!あんたの好きなガムがまた流行るぞ!」につながるのです。もしかすると、この小人は良い小人なのかもしれません。いや、クーパーの "夢" の中であるので、必然的にクーパーの味方になっている、単純にそれだけなのかもしれません。

では、「スゲエな、ボブ!」と喝采を上げた後、小人はなんとつぶやいたでしょうか?これはある意味、クーパーへの最終通告とでも言うべきセリフでした。

「火よ、我とともに歩め」

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ボブや片腕のマイクは、なぜ左腕にこの文言のイレズミを入れたのでしょうか?それは悪に魅入られたからでした。ということは、この時点でクーパーも悪に魅入られた可能性があります。これをユング的に解釈すると、自身の影と対峙したということになります。

ここまでの流れを整理すると、ローラが現れてクーパーのパワーを封じ、魂を高揚させたところで巨人の幻で信用を勝ち取り、まじないによってある意味、クーパーは小人の催眠にかかった状態になり、自身の影と対峙した。では、その先には何が待ち受けているのでしょうか?

 

部屋内のライトが明滅を始め、ローラの叫び声がこだますると、クーパーは待合室を横切り、再びミロのヴィーナスが鎮座している通路へと出てきます。 その先のドレープをくぐるとまた待合室があるのですが、そこには誰もいません。な~んだ、誰もいないじゃん、と踵を返すクーパー。もとの待合室に戻ると、そこには小人が居て「入るんじゃない!(Wrong way)」と怒鳴られます。

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ビックリしたクーパーは、誰もいない待合室に素直に戻っていきます。ドレープをくぐると、やはり誰もいない。しかし、ソファの影から何やら気が狂った笑い方をしながら小人が現れ、「次の友達だよ」とつぶやくと、また笑いながらソファの影に隠れます。この小人は明らかに先ほどの小人とは別人で、その下衆な笑い方、妙なステップ、あからさまな悪意、これら全てが小人のドッペルゲンガーの特徴ということになりそうなのです。

そして、現れるのはマディ・ファーガソン

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「私はマディ。私のいとこに気をつけて」そうクーパーに伝えると、マディの姿はゆっくりと消えていきます。ここで言う "いとこ" というのはローラ・パーマーのことで間違いなさそうなのですが、ちょっと気になるのが第2話での "夢" です。

ガムの話の後、小人はローラについて「彼女は僕のいとこだ。だけど、ほとんどローラ・パーマーみたいだろ?」と言っています。この時、既にマディの設定が出来上がっていたかというと、まだシーズン制作が決定する以前になるので、必ずしもそうだとは言えません。しかし、第2話で語られているこのセリフは、後に登場するマディを指していると解釈するのが自然です。しかし、中には小人とローラがいとこの関係だと解釈しているピーカーもいます。

そもそも "いとこ" というのは親の兄弟姉妹の子供になります。マディもローラママの姪という設定で、モンタナ州ミズーラに住むベスという母親と脚本上ではドナルドという父親の間に産まれた娘になります。しかし、『The Return』の第8章を見ても、少女の周りに兄弟姉妹の存在は感じられませんでしたし、『ファイナル・ドキュメント』でもローラママの父親が国防総省に雇われた身である説明はあっても、彼女に兄弟姉妹がいたという記述は一切ありませんでした。そもそも "ベス" がローラママのお姉さんなのか妹なのかもはっきりしません。なぜ、その辺の設定が語られなかったのか、その理由を考えると、単純にマーク・フロストがこの設定を忘れていたから。そう結論するのが一番まともだと思うのですが、実はベスもドナルドも存在していなくて、マディがローラママによって作られた存在である、そう深読みすることもできます。故にマディもボブを幻視することができて、自身の死を予感することができたと。深読みし過ぎて、ほとんど創作みたいになっていますが...。

マディの問題はマーク・フロストの気まぐれで終わらせて、ここで僕が言いたいのは、小人を産み出した存在とローラ・パーマーを産み出した存在が同じ祖先だとしたらということです。そもそも『The Return』の第8章では、消防士の子宮から産まれ、セニョリータ・ディードのキスによって、ローラは地球へと送り込まれました。小人の誕生は描かれていませんが、同類であるボブはエクスペリメントから産まれ出でた存在であり、同様に産まれ出でたトビガエルはローラママに寄生しました。小人のもともとの存在である片腕の男マイクはそんなボブの相棒でした。

こうして見ていくとエクスペリメントという大きな存在の下で、ボブや小人、片腕の男やローラ・パーマー、そして、ローラママに対してクーパーが対峙している、そんな構図が見えてきます。そして、デイヴィッド・リンチは、そんな構図をクーパーの目を通して描こうとしている。その目に映るのは "死" の向こうにある世界であり、"夢" という幻想の向こうにある "精神" の世界であったりするのです。

 

マディの忠告を聞くと、クーパーはまた元の待合室に戻ります。すると、そこにあったはずのソファやヴィーナス像は姿を消し、何もないガランとした空間へと変わっています。ふと足元に気配を感じたクーパー、視線を落とすとそこには小人がいて、さきほどと同じように奇妙なステップを踏み、「ドッペルゲンガー」と呟きます。

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『The Return』でも重要なキーワードとして登場した "ドッペルゲンガー" 。その意味は "生霊" や "第二アイデンティティ" と解釈されることがほとんどです。中には瓜二つのそっくりさんを指してドッペルゲンガー参上とSNSにアップしたり、二重人格者の悪の部分をドッペルゲンガーとして切り離し地球の神様になった者もいます。烙印を押され己の影を引き離された者もいますし、魔晄を浴びて亡き英雄の意志を継ぐ者として精神の混乱を乗り越えた者もいます。良い魔女と悪い魔女に別れ、悪い魔女は人の名前を奪い、その者を温泉宿で働かせていたりもしました。

先ほどのマディもローラのドッペルゲンガーであると解釈することもできますし、そういう視点で見ると、ローラママであるセーラとマディママであるベスもドッペルゲンガーの関係であると断言しても、それを否定する材料はありません。もちろんそれを肯定する材料もありませんが、強いて言えば、ローラママスメアゴル状態が、それを裏付けていると解釈することができるのかもしれません...。

そして、小人が自身の正体をドッペルゲンガーだと告げると、先ほどのローラもその正体を明かします。

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小人が呼び出した悪魔であるローラは、ただひたすらに叫び続けます。まるでベルゼブブに憑りつかれたあの少女のようでもありますが、このエクソシスト的な解釈を推し進めてしまうと、ドッペルゲンガー=悪霊に憑依された者という等式だけになってしまいます。この解釈も、もちろんツイン・ピークスという世界観に欠かせないものではあるのですが、先ほどのクーパー視点による物語という概念で見ていくと、悪霊ではなく、別の次元が垣間見えてきます。それは何かというと "悪夢" への変換です。

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クーパーの "夢" の世界であったブラックロッジ、もしくは赤い部屋が、このウィンダム・アールのサブリミナルによって "悪夢" に侵食されてしまった。このサブリミナルは、アールとローラが同一化したことを現わしているわけではなく、クーパーの "夢" の存在であったローラをアールが侵食した、クーパーの "夢の世界" にアールが侵略してきたことを現わしています。それを裏付けるように、第2話の夢の中ではクーパーにささやくだけの美女であったローラが、今では耳触りな程に叫び続ける存在となっているのです。"ささやき" と "叫び" という対極の行動は『The Return』にもしっかりと継承されています。そんなローラに恐れをなしたクーパーは慌てて別の待合室へと逃げていきますが、その時、既に腹部をナイフで刺された状態になっています。

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"悪夢" に侵食されたことにより、クーパーは己の影と向き合うことになります。もしくは "死" の世界へ踏み込み、自らの "悪" に魅入られたクーパーは、己の悪行を肯定する作業へと入っていきます。となると、そこに "リリスの誘惑" は必要なくなり、通路からミロのヴィーナスの姿が消えてしまいます。

自らの血を辿り、また元の待合室へと戻るクーパー。そこには過去最大の過ちであった自分の姿がありました。

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1985年にピッツバーグで起きたキャロラインの死は、デイル・クーパーのその後の人生に大きな影響を与えました。しかし、ここで注目したいのは、内藤仙人さまと同じ解釈になってしまうのですが、クーパーって、キャロラインと一緒に死んだんじゃないの?というものです。死んでいるからローラと会話することもできると。上記の画像を見ても、クーパー、気持ちいいぐらいに死んでるじゃん、みたいな。じゃあ、現実のツイン・ピークスの住人やFBIの面子はなんなの?と思われるかもしれませんが、それはあれです、『シックス・センス』のブルース・ウィリスと同じってやつで、みんながみんなそういう人たちだったという...。

まあ、しかし、旨そうにコーヒーは飲むし、チェリーパイとドーナツの消費量は町一番でしたから、これらが全てそういうことで片づけてしまうと、デヴィッド・フィンチャーの『ゲーム』と同じで、最後の最後でパンパカパーン!みたいな事になりかねません。今までの事って結局なんだったん?と。

ですが、このクーパーとキャロラインが寝っ転がっているシーンで描かれているものは完全に幽体離脱です。まさしくドッペルゲンガーです。そして、先ほどのウィンダム・アールの侵略によって、クーパーの "夢" は完全に "悪夢" と化してしまいました。一番、思い出したくない出来事が目の前に転がっているのです。救いたくても救い出せなかった最愛の人物が。

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その想いにリンクするようにムクリと起き上がるのはアニー。ここで次元が超越されました。キャロラインはアニーで、アニーはキャロライン。もしくはアニーの魂を利用してキャロラインが復活した。そう解釈することもできそうです。そして、これらの事象は全てウィンダム・アールの仕業によるものでもあります。まるでフィリップ・ジェフリーズが "時" を自在に操れたように、ブラックロッジに潜り込みダグパスの力を得たアールも "時空" を操り、クーパーにこれらを見せたのだと深読みできるのです。ただ、この解釈も『The Return』以降だからできるものだとも言えます。今から約30年前のリンチがここで "時空" について何かしらのヴィジョンを具現化しようとしていたというのは、このシーンの後で流れる "乖離していく空間" の映像が物語っているのではないかとは思います。

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しかし、別の解釈として、ペルソナからシャドウに落ちていくヴィジョンを具現化したとも言えます。このテキストの "二面性" を語る時に、ちょいちょいこのユング論を出していますが、この第29話は、ほぼ次の画像を物語化したものではないかと思うのです。

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ユング的な解釈をするなら、通常の自我であるペルソナを鏡で覗くと、内部に隠れていたシャドウが姿を現わす。そのシャドウは精神の牢獄に捉えられているもので、ペルソナの仮面を外さない限り表に出てくることはない。

『The Return』の第2章を振り返ってみます。

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この第29話では悪魔であるローラが小人によって召喚されました。その25年後、シャドウであるローラが自我の仮面を外すと、精神はペルソナとして光り輝いています。シリーズの冒頭にこのようなヴィジョンをリンチが提示しているということは、ローラがペルソナを取り戻す物語、如いてはクーパーがペルソナを取り戻す物語だと読み解くことができるのです。

ここまでのブラックロッジでの流れを振り返ると、自身の "夢" の世界に迷い込んできたクーパーは、悪魔ローラにパワーを吸い取られ、小人の催眠にかかり、ウィンダム・アールの侵略によって、自身の古傷をえぐる悪夢へと辿り着きました。この流れはクーパーの精神内にあるシャドウが一つ一つ牢獄を抜け出す鍵を開けていくプロセスであり、ペルソナであるクーパーを牢獄に閉じ込めるためのミッションであるとも言えるのです。その精神的プロセスを "夢" と "死者" というキーワードで具現化したものがブラックロッジであり、後の『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』『インランド・エンパイア』へとブラッシュアップされていきます。

そもそもリンチとフロストは打ち切られたシーズンの続編が制作できるならクーパーのシャドウ(影)の部分を描こうと計画していたことが明らかになっています。そのための布石がこのブラックロッジであり、25年の月日がかかりましたが、『The Return』で描かれていたのはまさに悪クーパーの物語でした。もともと8話完結で計画されていた『The Return』が最終的に18話と倍以上の量になってしまったのは、悪クーパーの物語と並行して、クーパーとローラがペルソナを取り戻す物語が加えられたからではないかと思います。しかも、リンチとしてはシャドウの物語よりも、ペルソナの再生を描くことの方に情熱を傾けてしまった。故に悪クーパーの物語がイマイチ直線過ぎていたのに比べて、ペルソナを取り戻すクーパーの十二因縁プロセスが多種多様な人物とのドラマチックなやり取りで溢れていたことにもつながりそうなのです。

そんな『The Return』の起点にもなるブラックロッジの物語は、最終的にどこへ収束していったでしょうか。

 

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この旧シリーズを巡る考察の随所でアニーとキャロライン、ダイアンとジェイニーEについての集合的無意識の関係を語ってきましたので、その辺は割愛いたします。悪クーパー(ドッペルゲンガー)がウィンダム・アールではないかというのも、今まで散々語ってきましたので、これ以上語る必要はないかと思います。ただ、先ほど語ったようにペルソナとシャドウの関係を端的に見るとするなら、上記の画像の様にクーパーとアールの関係を現わしているとも言えるのです。

クーパーにとってアールはシャドウであり、アールにとってクーパーはペルソナであるという。二人は師弟関係でもあり、恋敵でもあり、鏡映しのような存在でもあると。リンチ監督が旧シリーズの時にウィンダム・アールというキャラクターが気に入らないと語っていたのは、クーパーの "二面性" を描く上で、アールがあからさまにクーパーのシャドウであったからではないかと思うのです。リンチ監督は、その "二面性" を一人の人間の中で描きたかった。そのためにはアールが邪魔でしょうがなかったのではないかと。

しかし、まあ、こんなことを定義づけるために14,000文字も使って、とうとうと語ったところで、やはりアメリカン・スピリットを吹かし、コーヒーを口に運びながら、そんなこと考えたこともないよ、とあっさりガハハハハと笑われそうな気もします。

高飛車で狡猾なウサギと愚直で誠実なカメの競争は、お互いを鏡映しにしながら、その精神遍歴の巡礼を生ある限り続けていくのかもしれません。

 

そんなわけで、さくっと終わらせるなんて嘘もいいとこ。結局、なんだかんだでこの深読みシリーズ⑤は、またしても全30,000文字になってしまいました。前々から当ブログを読んで下さっている方、たまたま検索で辿り着いた方、いずれにしても最後まで駄文にお付き合いして頂き、ありがとうございました。旧シリーズ、新シリーズ、リンチ作品を楽しむ一助になれれば幸いです。たぶん、少し時間が空いてしまうと思いますが、なんか忘れた頃にひょいと『The Return』のナイド論を展開しようかなとは思います。それまでは...。

深読みツイン・ピークス⑤ ドッペルゲンガー section 2

「The Return」を解読するための旧ツイン・ピークス巡礼の旅シリーズ

第4回「ツイン・ピークス シーズン2を深読みしてみる」

 

第5章「次に会う時の私は私ではない」

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2.三人のヴィーナス

さて、アニーをさらったウィンダム・アールを追い、グラストンベリー・グローブに残された足跡を辿りながら、クーパーはブラックロッジの内部へと静かに潜り込んでいきます。そこでまず潜入者を出迎えたのは "ミロのヴィーナス" でした。

ギリシャのミロス島1820年に発見されたこの大理石の女神像は、現在、パリのルーヴル美術館に展示され、立ち姿が1:1.618という黄金比の構図になっていること、両腕がない事で逆に観る者の想像力を掻き立てていることなどから、現存する女神像の中でも抜群の人気と知名度を誇る作品として知られています。そんな王道の中の王道であるヴィーナス像が、ブラック・ロッジの玄関とでも言うべき通路に鎮座しているのはなぜでしょうか?

内藤仙人さまの解釈ですと、リアルに存在するミロのヴィーナスが鎮座する通路はそのまんま "現実" とつながっている空間であり、ドレープの向こうにある待合室に鎮座しているメディチ家のヴィーナスには両腕があることから "異次元" の空間になっている。腕がある・ないでその空間の意味が違うのだよ~ん、わかったかい?チミは!という見解でした。

しかし、インターナショナル版の考察で語ったように、メディチ家のヴィーナスもリアルに存在している女神像です。内藤仙人さまはシラクサ(バイアエ)のアフロディーテ像に構図が似ていると指摘していますが、これもインターナショナル版の考察で語ったように "恥じらい" をテーマにした彫刻作品であるため、その構図はまったく一緒になるわけでして、決してパクったとか、盗んだとか、贋作だとか、そういう類のものではないのです。系譜が一緒の女神像を並べるとこんなになります。

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みんなしてイヤ~ンって感じになっていますが、上記の作品のどれがメディチ家のヴィーナスかわかる方は、たぶん、僕と一緒でルネサンス芸術や古代ギリシャ彫刻が大好きな人なのではないかと思います。いずれにしても、このポーズや構図に意味があるという点では仏像も同じで、これらのアフロディーテ像は "愛と美" を司るものですので、ローラ・パーマーという "愛と美" を暗に仄めかしているのではないか、てな感じがインターナショナル版での僕の解釈でした。

では、ブラックロッジの玄関に鎮座しているミロのヴィーナスはいったい何を意味するのか?ですが、そもそも、ヴィーナスの失われた両腕はどうなっていたのか?にその意味が由来してきます。

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諸説ありますが、今のところ有力な候補として挙がっているのが上記の考古学者であり美術史家でもあるアドルフ・フルトヴェングラーというドイツ人が考案した構図になります。もともとヴィーナス像には碑文が記された台座が存在し、そこに乗せている左手には黄金の林檎が握られていたのではないかというものです。

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こんな感じ。

これが真実かどうかは歴史のみが知ることではありますが、ここであるキーワードが登場します。それが "パリスの審判" 。

詳しいことはWikipediaを読んでいただければと思いますが、簡単に言ってしまうと三人の女神が「アタイが一番キレイでしょ!」と争った結果、神々がギリシャトロイアに分かれて10年戦争を起こすこととなり、最終的にトロイアがめっためたに滅び去ることになったというギリシア神話になります。そもそも "女神" と呼ばれる存在の方々が、己の美を誇示するというのがなかなかに解せないところではあるのですが(見た目は美しくても、その心はどうなんだ?というね)、その中で褒美である "黄金の林檎" を手に入れたのが "愛と美" の象徴であるアフロディーテであったと。他の二人の女神については、全知全能の神でありながらバツ2でもある最強の神ゼウスの奥さんで鬼嫁なヘーラー、そして、フクロウを従いメデューサの元ネタとも言われ聖闘士星矢の沙織お嬢様としても知られる戦いの女神アテーナでした。

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ツイン・ピークスという作品で順当に女神を選ぶとするなら、このフクロウを従えるアテーナではないのか?と思いがちなのですが、どうやら天才の発想とはそんな陳腐で単純で浅はかなものではないらしく、ブラックロッジの玄関にはアフロディーテが鎮座しています。となると、フクロウは関係ない、ヘビも関係ない、出迎えるのは "愛と美" の象徴である女神さまであると。その手にはリンゴが握られていたかもしれないと...。

ここで『The Return』でのブラックロッジを見てみましょう。旧シリーズから25年が経ちましたが "待合室" には変わらずメディチ家のヴィーナスが鎮座しています。

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ちょっとソファを模様替えしたようですが、それ以外は以前のままなようです。ということは、ローラ・パーマーも変わらず "愛と美" の象徴として存在していると。なるほど。では、進化した腕に「さあ、行け!」と促されて進んだ先にはミロのヴィーナスが鎮座しているのでしょうか?

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はい、何もありません。行け!って言うから行ったのに、この通路は袋小路になっています。いや、ドレープを開けようとしても鍵がかかっていて先に進めないのです。しかし、たぶんこの通路がブラックロッジの玄関で間違いはないはずです。なぜなら、最終章でクーパーが右手ヒラヒラでグラストンベリー・グローブに舞い戻ってきた通路と一緒だからです。

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その最終章でも、やはりミロのヴィーナスの姿はありません。でも、よ~く見ると、床のジグザグが横を向いています。旧シリーズではどうだったでしょうか?

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やっぱりジグザグの向きは縦方向になっています。グラストンベリー・グローブから入った時は縦方向だったのに、出る時には横方向になっている。ということは、推測ではありますが第17章で歴史を改変してしまった影響がブラックロッジにも現れていると言えそうです。しかし、このミロのヴィーナスはどこに行ってしまったのでしょうか?

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いました。

しかし、なんか様子が違います。

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誰?

はい、ミロのヴィーナスは25年後、アルルのヴィーナスに変わっていました。

第18章の考察から散々語っていることではありますが、パリのルーヴル美術館でミロのヴィーナスと同じフロアに展示されているこのアルルのヴィーナスは、消防士が投げかけた謎のカリカリ音の正体であり、ジュディの正体でもあり、進化した腕のドッペルゲンガーでもあり、ミロのヴィーナスのドッペルゲンガーでもあるのです。

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この2つのヴィーナス像には決定的な共通点が2つあります。1つは発見当時、どちらも両腕がない状態で見つかったということです。『The Return』で鎮座しているアルルのヴィーナスが実際の姿であり、ルーヴルに展示されているヴィーナスは復元されてはいますが、本当にこの姿だったのかは歴史のみが知ることなのです。

もう1つは、復元案としてどちらも "黄金の林檎" を手にしているということです。これはアフロディーテをモデルに制作されたという観点からのものではありますが、アルルのヴィーナスの左手には手鏡が握られているということから、第18章の考察では、手にしている果実は "黄金の林檎" ではなく "禁断の果実" であり、ブラックロッジに鎮座しているヴィーナスは "禁断の果実" を食したイヴではないかという結論になりました。さらにジュディの正体を探り、そもそもイヴをそそのかしたリリスではないかというのが僕の最終的な結論 (妄想) になっています。

いずれにしてもブラックロッジには3人のヴィーナス、もしくは3人のアフロディーテが存在していることになります。アフロディーテリリスを同一のものにすることはできませんが、愛の女神と愛の悪霊という "二律背反" はドッペルゲンガー、もしくは人間の "二面性" を表現しているようにも思えます。

さらに "3人" というキーワードを深読みすると、彼女たちが浮かび上がります。

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3人とも同じ名前を語り、チャルフォント以外は玄関で立ち話しかしていないこと=玄関に存在する者、そして、以前の考察では "夢の世界" への道先案内人ではないかという結論に至りました。このトレモンド夫人とアフロディーテを同列とするなら、

メディチ家のヴィーナス=チャルフォント

ミロのヴィーナス=旧トレモンド夫人

アルルのヴィーナス=アリス・トレモンド

こんな風に捉えることができるのかもしれません。いやいやいや、なんで大阪のオバハンがミロのヴィーナスやねんな!おっかしいやろ!と思われそうですが、はい、書いてる僕が一番そう思います。ただ、共通の存在理由があるということは、リンチ大先生の頭の中の大宇宙には、このような一見つながりがなさそうな存在同士が、別の視点で覗き見てみると見事につながってしまうという、ある意味、隠し絵のような側面もあるのではないかと。

さらに "3人" と言えば彼女たちです。

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サンディ、マンディ、キャンディ。もう一回、言ってみましょうか?サンディ、マンディ、キャンディ。サンディ、マンディ、キャンディ。語呂が良すぎて、何回でも言えちゃいます。サンディ、マンディ、キャンディ。サンディ、マンディ、アンディ。あ、余計なおっさんが混じってしまいました。と、まあ、トレモンド夫人よりは、こちらの方がよっぽどヴィーナス感が出てきますが、『The Return』第10章の考察では、この三人娘は "三美神" の象徴ではないかと語りました。

ここでまた永遠の殉教者ボッティチェリ論を展開してもいいのですが、それは脇の小箱に大切にしまっておくとしまして、とりあえず考察の結論としてはキャンディが純潔の象徴ではないか?ということでした。

この "三美神" ですが、作品テーマや神話の解釈によって諸説ありますが、一般的には先述した最強の神ゼウスと鬼嫁ヘーラーの娘たちと言われています。また、アフロディーテの従者としても有名で、その娘たちではないかという解釈もあります。中には "パリスの審判" から、ヘーラー、アテーナ、アフロディーテと見る向きもありますが、それぞれの女神を暗喩するクジャクやフクロウが描かれていないことから、この解釈はあまり浸透はしていません。

しかし、いずれにしても、ここでまたアフロディーテが登場します。『The Return』を俯瞰すると、不思議ちゃんキャンディはロドニーの愛人として登場し、通常であれば速効で殺されていてもおかしくないダギー・ジョーンズをリモコン殴打で邪魔し、最終的にはミッチャム兄弟をツイン・ピークスという "夢の世界" へと導く役目をしています。また、キャンディにはクーパーやナイドと共通するハンドサインが存在します。それが下記の右手ヒラヒラですが、ブラックロッジからグラストンベリー・グローブに脱出するクーパーも、保安官事務所に辿り着いた悪クーパーを撃退しようとするナイドも、似たようなハンドサインをしています。

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この三者に共通することは何か?

まずは、アルルのヴィーナスの右手には何が握られていたでしょうか?

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そうです、"黄金の林檎" もしくは "禁断の果実" が握られていました。一般的には不死の源であると言われる "黄金の林檎" を、パリスの審判でアフロディーテが手に入れたとして解釈されていますが、ここでは "禁断の果実" として仮説を組み立てていきます。

イヴが妬ましいリリスは、神から禁じられていた果実を食すようイヴに促します。食べちゃいなさいよぉ、大丈夫、誰も見てないし、私も誰にも言わないし、とにかくおいしいんだから。言われて食べてみると、本当に美味しい。バクバク食べてるところに、アダムがやってきて「イヴちゃん!それ食べちゃダメなやつだよ!」とビックリ。でも、あまりにも美味しそうだから自分も食べたくなっちゃった。1個ぐらいいっか、イヴちゃんもバクバク食べてるし、1個ぐらいならバレないでしょ。で、食べてみたら、止めらんない、やめらんない。で、神様にバレちゃった。そんなシーンを1枚の絵で見事に描き上げたのがミケランジェロの『原罪と楽園追放』。

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この絵の中心でイヴに果実を渡しているのが蛇女リリスで、イヴちゃんに「はい、どうぞ」と優しく手渡しています。アダムは自ら果実に手を伸ばし、その結果、元妻リリスにとことん嫌気がさして、この女もうイヤと両手で遮っています。ミケランジェロがスゴイのはイヴの描き方です。果実を食べる前は美しい女性だったのに(筋骨隆々なのは彫刻家で男色家ならではのご愛嬌)、食後は急に卑しくなり、楽園を追放される頃には哀しむどころか、薄笑いを浮かべています。今から500年以上前に、こうして人間の "二面性" を既に1枚の絵の中に描き切っていたというのがとにかく凄くて、勝手な解釈をするなら、これが "ドッペルゲンガー" 誕生の瞬間とも言えるのです(こんなトンデモ解釈するのは僕しかいないと思いますが...。美術嗜好家の方々、本当にごめんなさい)。

いかん、いかん。このままだとミケランジェロを語るだけで、ご飯10杯も100杯も食べてしまうので(楽園であるはずの背景がゴツゴツした岩場で、追放された先はこの世の果てまで続く大平原だったり。蛇女リリスと天使が対極的に描かれていたり...、ああ、止まらない...)この辺でとどめておきましょう。

禁断の果実を食したアダムとイヴ。彼らに待ち受けていたのは楽園の追放、そして "恥じらい" でした。

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さてさて、こじつけてきましたよ。デイヴィッド・リンチのインスピレーションというのは、本当に凄まじくて、こんなこじつけが平気で成立してしまうのです。だからリンチ作品というのはやめらんないのですが、言いたいことを察して頂けましたでしょうか?

"禁断の果実" というのは人間の "恥じらい" の扉をこじ開ける "鍵" であり、その "鍵" を手渡したのが蛇女リリスになります。アルルのヴィーナスの右手にはその "鍵" が握られていて、クーパーもナイドもキャンディも、何かしらの扉を開けるため、もしくは何かしらの扉を閉めるために右手ヒラヒラのハンドサインを行った。

旧シリーズでのミロのヴィーナスはアフロディーテをモデルに制作されたものであり、アルルのヴィーナスと同じ理論を当てはめるとすると、失われたミロのヴィーナスの右手には "鍵" という名の "禁断の果実" が握られ、台座にもたれていた左手には "鏡" があったのではないかと推測することが可能です。そして、アルルのヴィーナスと同列ならば、この2体の女神像は鏡写しの存在、要するに蛇女リリス、如いてはジュディの "ドッペルゲンガー" を現わしていると。

その証拠にブラックロッジ内でクーパーが次元を超越し、キャロラインのドッペルゲンガーが現れると、ミロのヴィーナスはプツっとその姿を消してしまいます。そして、『The Return』では、進化した腕が「我がドッペルゲンガー」と呟いた際にドアップで映し出されるのはアルルのヴィーナスであり、そのヴィーナスは進化した腕の姿となって「存在しない!」と叫んでいました。

青いバラ事件の被害者であるロイス・ダフィーも同じような言葉を残して、この世から去っています。

「私は青いバラと同じ」

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てな感じで、6000文字を超えたところで、次回はセクション3、ドッペルゲンガーの謎を徹底解明です。

 

巡礼の旅シリーズ 第4回「ドッペルゲンガー③」

深読みツイン・ピークス⑤ ドッペルゲンガー section 1

さて、思いつきで始めた旧ツイン・ピークスを巡るこのシリーズも、いよいよ最後となりました。締めを飾るのはもちろん「ツイン・ピークス第29話」。言わずと知れた旧シリーズの最終話です。

通常の物語であれば、もしくはサスペンスやミステリーであれば、最終話で描かれるのは当然、今まで散りばめられた謎や伏線を回収する、とっておきのストーリー展開になるはずだと誰もが期待してやまないはずです。あの謎はいったいどういう意味だったのか?あの伏線はいったい何につながっていくのか?自分の予想は当たるのか?もしくは遥か上を超えて驚愕の事実が明かされるのか?そうやって期待するのが至極当然だと思います。しかし、既にご存じの通り、実際はというと何一つ解決されないという。いや、解決されないどころか、さらに謎は深まり、挙句の果てには永遠の放置プレイにさらされるという。誰かこの縄をほどいてくれぇ!いや、やっぱほどかないでくれぇ!みたいな。

例えば「ウサギとカメ」という童話になぞらえるなら、競争したって勝つに決まってると高を括ったウサギはひたすら余裕ぶっこいて昼寝をはじめ、その間、えっせらえっせらと健気に歩みを進めるのはドジでのろまなカメさん。そこに突如、宇宙人がミヨーンミヨーンとやってきて、昼寝しているウサギに「パンプルピンプルパムポップン!」と魔法をかけると、あら不思議、ウサギはカメになってしまいます。そして、カメはカメで突然ボワーンと森の道にできた落とし穴にはまり込んで、ゴロゴロゴロッと不思議な世界へと転がり落ちていく。さてさて、どちらが先にゴールをするのか?というところで絵本がおしまい。続きは25年後で~す、ジャーンケン・ポン!こんな感じなのです。意味がわからない上に結局、結末も物語の意図もなにもわからない。それをそこそこのファンが、あの宇宙人は観世音菩薩の化身で、ウサギは己の罪を供養するためにカメになった、さらにはカメが落ちた穴はアリスが落ちたウサギの穴と一緒で、要は精神世界へのワームホールなんだと、もっともらしく考察している。それが当ブログです(笑)

んなわけで、妄想が甚だしい僕が、今から約30年前に世界中を驚愕の渦に巻き込んだ世紀の最終回を、今さらのように徹底解読してみせましょうと。ホンット、今さらですが...。しかし、姐さん。ウサギがカメになっちまったら、結局どちらがゴールしたって、勝者はカメなようですよ。いったい、どっちが本当のカメなんだろう?

 

「The Return」を解読するための旧ツイン・ピークス巡礼の旅シリーズ

第4回「ツイン・ピークス シーズン2を深読みしてみる」

 

第5章「次に会う時の私は私ではない」

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1.それぞれの結末

◆ アンディ&ルーシー

妊娠しているなんてお構いなしでミス・ツイン・ピークス・コンテストのステージで激しいダンスを披露し、その後、DNA的な真実なんてどうでもいい、私はアンディを父親に選ぶわ!としおらしく大きな決断をしたルーシー。それを聞いたリチャード・"ディック"・トレイメンはあからさまにゲス喜び。からの、コンテスト会場の大混乱。肝心のアンディは洞窟の絵は "地図" だったんだと伝えるため、ルーシーなんて探しもせずにクーパーを追い求めたわけですが、結果、最終的にルーシーも助けたらしく、二人はめでたくゴールイン。

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wisteria-valleyによる私的解釈:

序章ではローラが殺害された廃列車を発見し、レオの家では偶然とはいえ隠されたブーツも発見、そして、フクロウの洞穴ではあろうことか飛び回るフクロウを刺し殺そうとピッケルを振り回し古代の隠された仕掛けを発見、さらには洞窟の絵が "地図" であることも解明したアンディ。『The Return』ではビリーらしき人物と接触し、ホワイトロッジに招かれ消防士と面会。とぼけた感じで、さりげなく重要どころを押さえています。アンディが動くところに謎の解明ありです。

 

◆ホーク&丸太おばさん

クイーンに選ばれたアニーをさらったウィンダム・アールの行き先を探り、クーパーとハリーは洞窟の絵からそのヒントを探ろうとします。

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そこに現れたピートが "12匹のニジマス" とつぶやいたところでハリーは光明を得ます。"グラストンベリー・グローブ" という聞きなれない単語が出てくると、ホークは「血染めの布とローラの日記の一部を発見した場所だ」と合点。そこへクーパーの依頼で "焦げたオイル" を保安官事務所に持参した丸太おばさん。このオイルは、夫であるサム・ランターマンが、亡くなる直前の夜に持ち帰ったもので、丸太おばさんにこう告げたらしい。「このオイルは "門" への入り口だ」。このオイルの臭いは、ジャコビー先生がジャック・ルノーがリーランドに殺された夜に嗅いでいた臭いであり、ロネット・ポラスキーもローラが殺された夜にやはりこの臭いを嗅いでいた。

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wisreria-valleyによる私的解釈:

序章から変人扱いされていた丸太おばさんですが、徐々にその存在は森のメッセンジャーとして超重要人物へと変貌していきました。最終的にはブラック・ロッジへの道先案内人として旧シリーズでの役目を終えています。ホークはさらりと「ローラの日記の一部を見つけた」と語っていますが、これについては詳細が30年近く経っても未だに不明。"血染めの布" はローラが殺された廃列車から800m離れた場所で彼が発見していましたが、その場所が "グラストンベリー・グローブ" になるようです。森の奥深くという割には、ちょっと近いような気もしなくもないですが...。いずれにしても、この2人が『The Return』では森の代弁者として、再び語り部として登場しています。ある意味では "夢見人" の代弁者、それがこの2人なのかもしれません。そういう視点で旧シリーズと『The Return』を観直してみると、その言動や行動にはなかなか興味深いものがあります。

 

◆ビッグ・エド&ノーマ・ジェニングス

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音のしないカーテンレールを開発し億万長者を夢見ていたネイディーンは、その夢が破れると大量服薬で自殺を図りましたが、奇跡的に一命を取り留め、昏睡状態から復帰すると17才の怪力女子に変貌していました。そんなネイディーンに投げ飛ばされ、締上げられ、挙句の果てには "妖艶な快楽の世界" まで味わってしまったマイク。しかし、コンテスト会場ではなんの因果かウィンダム・アールの砂袋攻撃を受けてしまいます。彼女が襲われなければいけない理由は何一つないのですが、どうもアールの癪に障ったようで、この野郎!とばかりに砂袋を脳天に喰らってしまうという...。それがきっかけで正気に戻り、エドとノーマのロマンスはまたもや延長戦となってしまうのでした。

wisteria-valleyによる私的解釈:

ツイン・ピークスが大ブームになった要因の一つは、このビッグ・エドとノーマの決して結ばれることのないロマンスという "メロドラマ" が物語の随所に存在していたからだと個人的には思っています。シェイクスピアの時代から、なんだかんだ小難しいことを言ったって、結ばれそうで結ばれないもどかしい感じが、結局みんな大好きなんです。さらにアクが強すぎるネイディーン、数々の事件に関与していそうなハンク・ジェニングス。この四つ巴戦にシェリーとレオ、片目のジャック、ジョシー・パッカードと香港マフィア、そして、おとぼけマイクが加わることによって、ローラ事件とは別に、ツイン・ピークスという町の人間模様に最大限の華を咲かせていたわけです。

『The Return』では、そういえばこの2人こんなんなったよと、最後の方でお情け程度のエピソードしか描かれませんでしたが、いいんです、この2人に限ってはそれで十分なんです。どちらかと言うと、不運なビッグ・エドの結末を、あのデイヴィッド・リンチがあんな形で、暖かく、そしてハッピーに描いていたことに、ツイン・ピークスへの愛情がどれほどのものか窺い知ることができると言えるのではないでしょうか。

 

◆ドナ&ベン・ホーン

ドナについては第2章「トレモンド夫人」で散々語ったので、ここではベン・ホーンについて。

ツイン・ピークスという町を発展させた事実上の名士として君臨していたアンドルー・パッカード。彼が所有していた製材所やゴーストウッドの森は妻であるジョシーが相続することになりましたが、アンドルーの実の妹キャサリンはそれが気に入らない。そこで森林事業とは別に、カジノやホテル、デパートなどサービス業で町の名士に成りあがったベンジャミン・ホーンを利用し、ジョシーから兄の遺産を奪い返そうとする。

はたまたジョシーも、実は香港マフィアの副首領の父を持つ娘で、裏切りを犯し島を追われた身であり、食いつなぐためにアンドルーの財産に目を付け、トーマス・エッカートを利用してわざと結婚をしていた。その秘めたる妖艶さの裏には隠し持った顔があるという、ツイン・ピークスという作品の重大なテーマ "二面性" をたったワンシーンで描ききったのが "序章" のオープニング。鏡越しで始まった物語は、最終的に鏡越しで終わるという、これまたとんでもない構成になっているのですが。

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ベンジャミン・ホーンは、そんなジョシーとパッカード家の抗争に巻き込まれた憐れな操り人形だったと言えます。あたかも自分が画策してゴーストウッドの森を我がものにし、その地を転売することによって大金をせしめようとしていたわけですが、結果、キャサリンに騙されてショボーンおじさんになってしまいます。そこから南北戦争の妄想に憑りつかれ、私は南軍のリー将軍である!四の五の言わず奴隷は私に従えっ!金儲けは好きにさせろっ!とアメリカの歴史を書き換えようとしますが、その野望も "たいまつの火" によって解毒されてしまいます。"火の力" によって逆に悪人から聖人へと変貌したベン・ホーンは、経営不振に陥ったホーン産業の立て直しに着手し、ブラジルからジョン・ジャスティス・ウィーラーを呼び戻す。果てはガラにもなく森林保護を訴え、己の悪事を白日の下にさらすことによって黒歴史の浄化を果たそうとしますが、その結果、怒りのヘイワード・パンチで一発KOされてしまいます。

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wisteria-valleyによる私的解釈:

"グレート・ノーサン・ホテル" "ホーン・デパート" "片目のジャック" など、ベン・ホーンが手がけた施設はローラ・パーマーの謎を探る重要な場所として、特にシーズン1では物語の舞台としてこの上なく機能していたのですが、第17話以降はパタリと閉店休業。その後、『シークレット・ヒストリー』では、結局、ベン・ホーンはパッカード製材所とゴーストウッドの森をキャサリンから買い受けることに成功し、『ファイナル・ドキュメント』では、あろうことかその森に民間刑務所を建設していたことが明らかになっています。この民間刑務所で起きたストロベリー殺人事件が『The Return』での "犬の脚" 、そして、"ジョー・マクラスキー" との関連を仄めかしていますが、具体的に何があったのかは本編でも書籍でも明らかになっていません。

仮説ではありますが、レイ・モンローやリチャード・ホーンが逃げ込んだ施設 "ファーム" がその民間刑務所の天下り施設になっていて、何かしらの犯罪シンジケートとの伝達中継地点になっていたのではないかと思われます。そこを裏切って、てい良く政府運営のヤンクトン連邦刑務所の所長に出世したのがドワイト・マーフィーであり、彼の本名が "ジョー・マクラスキー" であると。結局、悪クーパー/ウィンダム・アールは、ベン・ホーンが建設した刑務所さえも利用して、何かしらの犯罪シンジケートを組織立てていたのではないかと推測できるのです。

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さらに、わざわざブラジルから呼び寄せ、最終的にオードリーの処女を奪っていったジョン・ジャスティス・ウィーラー。彼はベン・ホーンの "友人" という紹介しかされていませんが、傾き始めたホーン産業の経営再建のためにやってきたという割には、なんだか久しぶりに田舎に帰郷した青年がのんびり夏休みを過ごしているリア充にしか見えません。その間にブラジルでは友人が何者かに殺害されてしまい、ジョンは急遽ブラジルへと帰国していきます。そして、25年後...。

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悪クーパーはブラジルのリオデジャネイロの郊外にある大豪邸でパパラッチされています。この意味するところにジョンが関係しているのかどうかは明らかにされていませんが、こう推測することは可能ではないかと思います。

もともとリオデジャネイロで事業を成功させていたジョンは、ベン・ホーンと同じように表の顔と裏の顔を使い分けている人物で、裏の顔は当然のように何かしらの犯罪組織とグルになっていた。その犯罪組織を取りまとめていたのが旧シリーズで殺害されてしまったジョンの友人であり、その組織改編のために急遽帰国することになった。しかし、それもウィンダム・アールの罠であり、帰国したジョンは何者かに殺害されてしまう。リーダーを失った組織を取りまとめたのが悪クーパー/ウィンダム・アールであり、ラスベガスと同じようにリオデジャネイロでも何かしらの犯罪シンジケートを組織立てたのだった。

全ては憶測でしかありませんが、こうして見ていくとベンジャミン・ホーンの周辺はウィンダム・アールらしき人物(悪クーパーに憑依している人物)にことごとく利用されている形跡があります。さらには旧シリーズの第27話、ジョンがブラジルに帰国すると知るや否や慌ててその後を追いかけようとするオードリーに、ベン・ホーンは待ってくれ、ミス・ツイン・ピークスの打合せをしようと引き止めますがムダに終わります。オードリーが部屋を出ていった直後、急に部屋にキーンという甲高い音が鳴り響き、ベンは何者かの気配を感じて振り返ります。

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この "キーン" という音は、『The Return』でグレート・ノーザン・ホテルに鳴り響いていた謎の音と同じで、クーパー復活の時はラスベガスの病院で鳴り響き、その音に誘導されるようにブッシュネル社長は病室を出ていきました。結果として、この音は "異世界" への入口から鳴り響く音だったのですが、これが旧シリーズの時点でベン・ホーンに迫っていた意図は明らかにされていません。

もしかすると、この時点でオードリーに子が宿ること、さらには銀行爆破事件に巻き込まれることが、後のベン・ホーンの人生をさらに狂わせていくことを暗に予言していたのかもしれません。もしくは後述する "ジョシーの呪い" を単に描いていたのかもしれませんが...。

 

◆オードリー・ホーン&アンドルー・パッカード

憧れのクーパー捜査官のため、ローラ・パーマーがいかに売春とドラッグの世界に溺れていったかを身をもって体現したオードリー・ホーン。その魔の手から危機一髪で救い出されても、父であるベンジャミンは「実の娘はとうの昔に死んでいる」とオードリーを完全否定。にもかかわらず、父が南北戦争の妄想に憑りつかれると、ボビーと共に現実に連れ戻す方法を模索、その結果、ジョンと出会い、彼女は大人の愛の世界に足を踏み入れることになります。ミス・ツイン・ピークスで森林保護を訴え、それでもゴーストウッドの森を利用して金儲けを企んでいる父を制止するため、オードリーは父が利用している信託銀行の貸金庫に我が身を縛り、ゴーストウッド計画の廃止を訴える。

その信託銀行に現れたのは2年前のボート事故で命を落としたアンドルー・パッカード。彼は妻ジョシーに疑惑を抱き、事故を装って姿をくらますと、ジョシーの背後にいる組織を調査、トーマス・エッカートという南アフリカ出身の貿易商に辿り着く。華麗なる復活を遂げ、ジョシーとエッカートへの復讐を見事に果たすと、アンドルーのもとにエッカートの秘書から贈り物が届く。その中身は中国製のパズルボックスだった。

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月の満ち欠けと星座が記された箱から、アンドルーは "時" を現わすと勘付き、アンドルーの誕生日、エッカートの誕生日、箱が届いた日を入力、すると箱が開き中から鉄製の小さな箱が現れる。万力でもビクともしない箱にしびれを切らしたアンドルーは拳銃で破壊、その小さな箱から出てきたのは貸金庫のカギだった。何が出てくるかとワクワクしながら貸金庫の扉を開けると、それはトーマス・エッカートからの復讐であり、信託銀行は一瞬にして爆炎に包まれたのだった。

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wisteria-valleyによる私的解釈:

銀行爆破事件後のオードリーについてはThe Return 総論で語っていますので、ここでは割愛します。肝心なのはアンドルー・パッカードとジョシーです。旧シリーズを俯瞰すると、ローラ・パーマー殺人事件という大きな縦軸に対して、先述したビッグ・エドとノーマのメロドラマが横軸として加わり、さらに大きな横軸としてジョシー・パッカード(本名:リー・チュン・ファン)の陰謀が描かれているのです。

旧シリーズ第7話でクーパー襲撃事件を起こした犯人はジョシーであり、ベンジャミン・ホーンと手を組んでパッカード製材所に火をつけ、キャサリンを焼き殺そうとしたのもジョシーでした。アンドルーと同様に華麗な復活を遂げたキャサリンにより、ジョシーの計画は頓挫し、最終的には裏切りと嫉妬で煮えくり返っていたトーマス・エッカートを殺害すると、ジョシーは不可解な死を迎えます。

この第23話のジョシーの死は、ピーカーの中でも意見が分かれ、僕のように「リンチが監督してないんだから、フロストがABCに脅されて作ったリンチ的な思わせぶりな話でしょ」と斬り捨てて終わる人もいれば、いやいや、第23話はブラックロッジの思惑を語った非常に重要なシーンなんだと熱く語る人もいます。

ジョシー擁護派の意見はこうです。トーマスを殺害した後、ジョシーはブラックロッジに連れ去られてしまった。そのため、死後、彼女の体重は65ポンド(約30kg)しかなく、目立った外傷もなければ、薬物や毒なども検出されなかった。ロッジでの彼女は復讐に燃えていて、その姿を第27話でベンジャミン・ホーンは奇妙な音と共に目撃し、ピートも同じようにホテルの暖炉で目撃している。

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第29話の最終回では、ブラックロッジ内に登場する予定だったが、リンチ監督によってなぜかカットされてしまった。そもそも『ローラ・パーマー最期の7日間』で語られていた "ジュディ" というのは、ジョシーの姉の設定であり、ジョシーはお姉さんによってブラックロッジに連れ去られてしまったんだ。

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そのブラックロッジがナイトテーブルの引き出しの持ち手なのかどうかは甚だ疑問なのですが、"木" の中に閉じ込められてしまうというのは、ある意味、前回のジャック・ラビット・パレス=夢見人と同じ類のような気もします。となると、ジョシーは "森の精霊" になってしまったのか?とも思うのですが、まあ、100人いれば100通りの解釈があるのがデイヴィッド・リンチの作品なので、これはこれで一つの解釈です。"ジュディ" =ジョシーの姉妹説は『The Return』が公開されるまでは、かなりの有力説でもあったので、逆に "極めてネガティブな存在" として格上げになったことに違和感を感じた人も多かったかもしれません。

そんなジョシーに翻弄された2人の紳士、アンドルー・パッカードとトーマス・エッカートですが、結局はスケベ親父が2人して女を取り合い、お互いに自爆してしまった話で終わってしまいました。しかし、第29話での銀行内のシーンは、僕にとって最高のシーンの一つでもあります。

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銀行の副支配人であるデルバート・ミブラー氏の、ただただコップに水を汲みに行くだけの足取り、そして、どうしたらよいものかと、ただただオロオロしているだけの、なんともスローリーなこのシーンはデイヴィッド・リンチの真骨頂とでも言うべきシーンで、ある意味、『The Return』のただただ真夜中にドライブをしているだけのシーンと妙なシンクロを起こします。何百回観ても、このシーンだけは飽きないんですよね。電話が突然鳴り響いて「ヤッホーイ!産まれたのは男の子か!」と喜んでいる警備員は、後のリチャード・ホーンの誕生を暗に仄めかし、朝っぱらからやることなくて居眠りこいてる新規取引案内係のおばちゃんは、たぶん爆発事件があっても眠り続けていたのではないかと思います。ん...、もしかして、このおばちゃんが夢見人?

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◆ガーランド・ブリッグス&セーラ・パーマー

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ウィンダム・アールの監禁生活から解放され、なぜかダブルRダイナーでラブラブ夫婦ぶりをまき散らしているブリッグス少佐。そんな両親の姿を見てボビーもテンションが上がったのかシェリーにプロポーズ。「ダメよ、私はまだレオの女なんだもの」と急に人妻感を匂わせるところ、リンチ監督お得意のビッチ臭がプンプンなのはご愛嬌。そこに序章以来のハイジが登場。エンジンがかからないとか、時間にうるさいドイツ人とか、ここに来てなんか最終回っぽい展開になってくる。そして、なぜか紳士のようにマントを羽織ったジャコビー先生がローラママを連れてくる。どうやらブリッグス少佐に会うため、ローラママに頼まれてダイナーを訪ねてきたらしい。第17話のリーランドの葬儀以来の登場となるローラママ、どうも様子がおかしい。焦点の合わない視線でブリッグス少佐を見つめると、ウィンダム・アールの声でゆっくりと語り始める。

「今、クーパーと共にブラックロッジにいる。私はここであなたを待っている」

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wisteria-valleyによる私的解釈:

すっかりローラは過去のものとなってしまったボビーと、やっと撮影が終わると解放感いっぱいのメッチェン・アミック、いやシェリー・ジョンソンはひょいと脇に置いとくとして、憐れなレオ・ジョンソンは、この時タランチュラの入ったカゴをくわえてなどいなくて、既にウィンダム・アールの5発の銃弾を受け、この世を去っていました。もしくは、現世に現れた悪クーパーによって射殺されたのかもしれませんが...、もしそうだとしたら『ファイナル・ドキュメント』の冒頭で、いきなり悪クーパー=ウィンダム・アールを決定づけることとなり、僕はちょっとほくそ笑んでしまいます。

それにしてもローラママです。なぜ、ウィンダム・アールはローラママの身体に憑依して、ブリッグス少佐をブラックロッジに誘い出そうとしたのでしょうか?

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順当な解釈としては、ローラママが憑依体質だから、それをアールが利用したと定義づけることができます。まあ、言ってしまえばイタコみたいな感じです。となるとアールはこの時点で "生" の世界から "死" の世界へと移行していて、常人では成し得ない "ダグパス" の力を手に入れていたと結論づけることができます。

しかし、『The Return』を経た今となっては、前回のトレモンド夫人その孫の考察で散々語ったように、蛇女リリスであるローラママが、逆にアールを利用してブリッグス少佐をブラックロッジに引きずり込もうとしていると解釈することもできます。旧シリーズの時点で、既にローラママスメアゴル状態であったと。

いずれにしてもブリッグス少佐がホワイトロッジで享受した啓示をブラックロッジの悪霊たちは手に入れようとしていて、その結果が『The Return』で描かれているのです。

 

というわけで、サクッとまとめるつもりが、あっというまに10,000文字近くになってしまいました。肝心のブラックロッジの解説は次回に続きます。

 

巡礼の旅シリーズ 第4回「ドッペルゲンガー②」

深読みツイン・ピークス④ ホワイト ロッジ

やっと発売&レンタル解禁された『ツイン・ピークス:リミテッド・イベント・シリーズ』ですが、目玉の特典映像集『インプレッションズ』を見てみたら、まあ、ビックリです。未公開シーンなんて何ひとつないじゃないか!マジか!

要するに本編が全てということらしいのです。本編から全てを読み解けと。いや、薄々は気づいていましたよ。ガマンできずにYouTubeを覗いてみたら、なんか舞台裏を追っている映像ばかり出てるなぁと。訳わかんないオッチャンがドキュメンタリーっぽくリンチを追ってるなぁと。で、頭をよぎりましたよ。もしかしたら、たぶんこれが全てなのかもしれへんなぁと。嫌な予感というのは当たるものです。バッチリ、予想通りでした。それが全てでしたよ。ちきしょう!

『リミテッド』と同時に滝本大先生監修の『決定版ツイン・ピークス究極読本』なんてものまで発売されましたが、こちらもズッコケました。情報量は膨大ですが、肝心の滝本大先生はストーリーなんてわかるわけがないと早々にサジを投げて美女・美女・美女とヨダレを垂らすだけ。町山氏に至っては遠まわしに退屈と斬り捨てておしまい。唯一作品と正面きってタイマンはっている高橋ヨシキ氏も、ストーリーラインをなぞるだけに留まり、内藤仙人さまのような独自の解釈というものが皆無でした。悪魔主義者らしい、とことんディープなダーク・ツイン・ピークス・ワールドを覗き見たかったのですが、なんか残念です。書籍としてはゲームの攻略本のような小さな気づきをちょいちょい与えてくれる良書だとは思います。

レンタルランキングを見てみると海外ドラマ部門では1位のようですが、全体的なランクで言うと82位とけっして話題作と騒がれるほどのものではなく、ライトユーザーの感想も大方が「意味がわからない」と呆気に取られておしまいのようです(ソースは7月17日時点でのGEOランキング。20日になるとドラマ部門で7位、総合では136位。ちなみにTSUTAYAでは79位)。まあ、至極当然の感想だと思います。僕だってデイヴィッド・リンチなんていう変態おじさんを好きにならなければ、こんな訳わかんないものの何が面白いんだと、箸にも棒にもかからなかったと思います。

ただ、このソフト発売のタイミングでいろいろと解禁された情報も多々あります。そのほとんどが作品に出演された裕木奈江さんのインタビューから垣間見えるものではあるのですが、ナイドと異次元の謎を探る重要なテキストであることは間違いありません。その辺は巡礼の旅シリーズの最終回でまとめて語るつもりでいます。

とりあえずはシーズン2に残された2つの重要なキーワード「ホワイトロッジ」と「ドッペルゲンガー」について語っていくつもりでいるのですが、前回のトレモンド夫人とその孫があまりにも濃厚すぎました。二つ合わせて30,000文字というブログを通り越して完全にキチガイ論文になっていたので、ここからはサクッと2,000文字ぐらいでまとめていきまっせ、姐さん。

 

「The Return」を解読するための旧ツイン・ピークス巡礼の旅シリーズ

第4回「ツイン・ピークス シーズン2を深読みしてみる」

 

第4章「結論、夢見人の正体はジャック・ラビット・パレス」

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てなわけで、いきなり結論からいきましたが、これはWOWOW放送当時から変わらない僕の妄想です。どこかでひっくり返らないかと思ってはいたのですが、どうもひっくり返る兆しがないので、これを結論といたします。

そもそも「ホワイトロッジ」というのは旧シリーズでブリッグス少佐とその機関が追い求めていた世界のことです。そのタイムラインを大まかに要約すると、1945年の人類初の核実験トリニティが行われた2年後、同じニューメキシコ州にあるロズウェルに未確認飛行物体が落下。アメリカ政府は極秘裏にそれを回収し、当時のアメリカ大統領であるトルーマンはMJ-12という調査委員会を設置、地球外生命体とのコンタクトを開始したと言われています。その後も未確認飛行物体の目撃情報は後を絶たず、1952年、アイゼンハワー大統領は本格的なUFO研究機関としてブルーブック計画を発足、その機関に在籍していたのがブリッグス少佐であり、ウィンダム・アールでした。しかし、ケネディが暗殺され、ニクソンが大統領に就任すると突如UFOなんてものは存在しなかったと政府が公表し、1969年、ブルーブック計画は終焉を迎えます。しかし、実際それは隠れ蓑であり、UFO研究は密かに行われ続け、1983年、ブルーパイン計画としてツイン・ピークスの森奥深くに政府の秘密施設が建設されました。そこに派遣されてきたのがブリッグス少佐であり、深宇宙探査と並行して行われた研究がゴーストウッドの森深くにある何かしらのエネルギー情報の収集でした。

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この流れを見ると、ブルーブック計画、もしくはマンハッタン計画が完全に『The Return』と同じタイムラインを辿っていることがわかります。要はエクスペリメント=宇宙人だと。かなり暴力的にツイン・ピークスを語るなら、原爆実験によって引寄せられた宇宙人が地球で悪さをしているんだよ、それを止めるのが我らがクーパー捜査官なのさっ!と言うことになります。なんともハリウッド的なストーリーではないですか。それをデイヴィッド・リンチが映像化すると『The Return』のようになってしまうと。たぶん、この流れを鳥山明氏がマンガにすると『ドラゴン・ボール』になり、村上春樹氏が小説にすると『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』になり、坂口博信氏がゲームにすると『ファイナル・ファンタジーVII』になります。円谷プロが特撮を撮るなら『ウルトラマン』、ジブリがアニメを作るなら『千と千尋の神隠し』になります。そう考えると『The Return』って純粋なエンターテイメントだと思うのですが、まあ、一般には通用しないですよね...。ていうか、一般どころかピーカーにも通用しないか...。

いずれにしても、1947年のロズウェル事件から綿々と続いている謎の一つが "ホワイトロッジ" になるのです。そして、それがツイン・ピークスにあると断言したのもブリッグス少佐でした。

ローラ事件が解決したその後、旧シリーズ第17話でクーパーと共にキャンプに出かけたブリックス少佐は、突然まばゆいばかりの光に包まれ忽然と姿を消してしまいます。その2日後、第19話の終盤で、ブリッグス少佐はかつてのパイロット姿で、これまた突然と我が家へと舞い戻ってきます。そして、その首筋にはプルトニウムのマークのような3つの三角形が組み合わさったアザができていました。翌日、クーパーらに失踪時の記憶を訪ねられたブリッグス少佐は、自らの目的を告白します。

「我々はここの土地にあるホワイトロッジを探している」

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『The Return』を経験している今となっては、このブリッグス少佐の失踪事件は、ヘイスティングスの "ゾーン" や、アンディが吸い込まれたワームホールと同一のものであるということがわかります。要するにブリッグス少佐はアンディと一緒でホワイトロッジに招かれた人間なのです。ただ、招かれた際にその土地の土をポケットに入れていなかったため、帰り道がわからなくなり、闇の中の光を辿って行き着いた先が愛する家族の元だったという。その経験が『The Return』のメモに反映されていると。

そして、ホワイトロッジに招かれたのはブリッグス少佐だけではありませんでした。ロズウェル事件が起きた1947年にツイン・ピークスでは3人の小学生が森で失踪する事件が発生します。その時に失踪したのが丸太おばさんことマーガレット・コウルソン、同じクラスメイトだったアラン・トラハーン、そして、トレイラーパークの管理人であるカール・ロッドでした。

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旧シリーズ第24話では二人に共通したアザがあることが発覚したわけですが、それと同じようなアザがカール・ロッドにあることも『シークレット・ヒストリー』で明らかにされています。となると、アンディにも、そして、遠く離れたイギリスの地でワームホールに吸い込まれたフレディにもアザが出来ていたのかもしれません。

いずれにしても、ホワイトロッジに招かれた人物たちは揃いも揃って皆、ボブと戦う者、もしくはブラックロッジに抗う者という立ち位置になっています。では、そもそも、このホワイトロッジというのはなんなのか?という話なんですが、僕的な結論は "太古の昔から存在する森の精霊たちが住む場所" ということになります。

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『The Return』のオープニング、第8章で登場した内なる宮殿、そして、第14章でアンディが招かれた面会室、いずれも画像を見てお分かりの通り、ソファには葉のデザインが施され、面会室の壁を見るとまるで樹木の中にいるかのように樹皮がそそり立っています。

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"時をつかさどる劇場" の床は大海原のようでもあり、木星の表面のようでもありますが、地を這う木の根のようでもあります。これらから導き出せるのは、リンチ監督はわかりやすいぐらいに "大樹" のイメージをホワイトロッジに凝縮していることです。監督は違いますが、旧シリーズの第20話でもホワイトロッジは同じイメージで描かれています。

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で、この "大樹" は何かと言うと、冒頭で結論づけたようにジャック・ラビット・パレスになると。

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さらには第8章で描かれていた集合的無意識の海にそびえ立つ顕在意識の島とも酷似しています。放送当時から、この顕在意識の島の持ち主がツイン・ピークスという物語の超重要人物になるのではないかと思っていたのですが、結局、それは人ではなく "木" だったという...。

『The Return』の第14章でモニカ・ベルッチが語っていた夢見人というのは、森の精霊たちが見ている夢の話を指していて、作品の根幹を端的に言ってしまうと、僕たち人間は自然に翻弄されながら生きている儚い存在であると。そして、それと並行して語られているのが、根強い宇宙人説。人類が原爆なんていうとてつもなく大きな "火" を手に入れたのは、そもそも宇宙人が人類にそういった知識を植えつけたから。キューブリックとクラークは、そんな見えない強大な力に "モノリス" という名を与えました。リンチとフロストは "エクスペリメント" という名を。

しかし、これらはツイン・ピークスという物語のある側面でしかありません。側面というよりは、デイル・クーパーという不思議な力を持つ男を描くための、云わば背景でしかありません。

次回は、そんなクーパーや物語の中心にいるローラ・パーマーの二面性に踏み込む "ドッペルゲンガー" について、これもサクッとまとめていこうかと思います。

 

巡礼の旅シリーズ 第4回「ドッペルゲンガー①」

勝手に永井真理子論

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去年(2017年)の2月頃、冗談まじりにナガマリ30周年ベストのフェイクニュースをブログに上げたのです。

そうしましたら、その4ヶ月後の6月中旬ですよ。この弱小ブログのアクセス数が急激に上がりまして、いったい何が起きたんだっ!と思っていたら、リアルにナガマリが復活すると!!!しかも10年ぶりの新曲まで出ると!!!!!!どうやらそれ関連でみんなこのアホみたいな記事に流れ込んできたらしいと...。はい、すいません。まさか復活して新曲まで出るなんて思わないじゃん...。

感涙モノの「Life is beautiful」「Starting」「I know right?」「私たちの物語」、素朴な「ミルク飴の味~for my mother~」(その後に発売されたフィジカル盤には「幸運の女神よ」「Winter song」の2曲が追加)、さらには東京・大阪のライブから追加公演、んでもって今年も単独ライブの開催(東京公演は既にソールドアウト)にフェス参加、またまた新曲まで発表されるらしいと、ああ、生きててよかった。

今月の25日には20数年ぶりにテレビにも出演するらしく、6月宣言(勝手に命名)の通りにナガマリペースで徐々に活動の場が拡がっている模様です。

しかし、ふと思いました。"永井真理子" で検索してもヒットするのは「あの人は今?」みたいな下世話な記事ばかり。そもそも若い世代には "永井真理子" なんて言ってもわかるわけがなく、篠田麻理子のパクリですか?とか、最近では同姓ちょっと同名な "永井真里子" さんなんていう声優さんまで出現。てなわけで、にわかファンの僕が、ここで勝手に永井真理子論を展開しちゃいましょうかと。ディスコグラフィーから作品解説までナガマリ・クロニクルを網羅しちゃいましょうかと。Wikipediaには書いてない情報までいっちゃいましょうかと。そんな感じで、なんか最近ナガマリ熱が上がってきたのでその勢いのまんま、まるっと30年を総論しまっせ、姐さん。

1.1987-1988

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ナガマリのデビューは1987年7月22日。奇しくも先日記事にしたガンズ・アンド・ローゼズと同期になります。今さらですがビックリです。ガンズとナガマリを同列にするなんて、ガンズ・ファンから怒られそうな感じもしますが、まあ、たぶんお互いに大人だし、そんなこと気にしないと言ってくれるかもしれないし、そもそもナガマリなんて眼中にないと斬り捨てられて終わるだけかもしれません。いずれにしても、デビューして1年半の間にアルバムを4枚も発売(1枚はベスト盤)。シングルは全部で6枚。今では考えられないくらい超ハイペースです。

この時期でファンになった人は「瞳・元気」や「ロンリイザウルス」をフェイバリットソングに挙げる人が多いです。ちょっとコアになると「親友」や「少年」、ナガマリ初の作詞ソング「Mariko」なども挙がってきます。ライブでは定番だった「Slow Down Kiss」「Step Step Step」もこの頃の曲。ナガマリのイメージを既に確立しています。

1stアルバム「上機嫌」から亜伊林が作詞に参加、根岸貴幸氏が全曲の編曲を担当しています。デビュー前のバンド仲間だった前田克樹氏も作曲で参加、2ndアルバム「元気予報」からは辛島美登里氏も作曲陣に加わり、既に盤石の布陣が整っているのも特徴です。

当時のヒットチャートを見ると中森明菜、荻野目洋子、中山美穂小泉今日子、少年隊と80年代アイドルがちょっとアーティストっぽく振る舞うようになり、安全地帯やBOOWYレベッカなど今で言う伝説的なバンドがガッツリと現役でブイブイ言わせてた頃になります。渡辺美里や杏里、今井美樹岡村孝子などガールポップの先駆的女性アーティストが注目され始め、たぶん、プロデューサーの金子文枝氏の中では、その輪の中にナガマリ投入を企んでいたのではないかと思われます。

2.1989-1990

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永井真理子が世間に認知されたのは上記の3枚だと断言してよいのではないかと思うのですが、その中でも特筆すべきは「ミラクル・ガール」と「ZUTTO」の2曲に絞られてきます。前者はかの浦沢直樹氏の代表作『YAWARA!』のテレビアニメのオープニングナンバー。後者は圧倒的なバラエティー女王であった山田邦子さんの人気番組『やまだかつてないテレビ』のエンディング曲。いずれにしても当時の人気テレビ番組とのタイアップにより、ナガマリの知名度は瞬く間に全国区となり、僕を含めてにわかファンが大量に発生することとなりました。

この時期に発表されたアルバムは3枚(1枚はベスト盤)。シングルは前期同様6枚になります。オリコントップ10入りとなったのは「ミラクル・ガール」「White Communication ~新しい絆~」「ZUTTO」の3曲。アルバムに至っては5thアルバム「Catch Ball」が1990年の年間アルバムチャートの25位、2ndベストアルバム「Pocket」は自身初のオリコンチャート1位を獲得しています。このチャートアクションだけを見ても当時のナガマリ人気がいかにグツグツと過熱していったかを物語っています。

ただ、この人気の過熱が後のセルフプロデュースへの布石となってしまったのも事実であり、良くも悪くも「ZUTTO」がナガマリのアーティスト人生を決定づけてしまったと言えるのです。

そもそも、この代表曲である「ZUTTO」は実はB面扱いで、両A面でもカプリング扱いだった「EVERYTHING」が、もともと『やまだかつてないテレビ』のエンディング曲として制作されていたらしいのです。「ZUTTO」のシングル盤のジャケットを見ても、自転車で颯爽と走っていくビジュアルが使用され、これは「EVERYTHING」の歌詞 "That's all right 風の中へと 今をぶつけて進んでゆく" をイメージしたものでした。しかし、テレビ局側はそれよりも「ZUTTO」を気に入ったらしく、急遽差し替えになったと。

例えば、ナガマリの代表曲が「EVERYTHING」になっていたら、その世界は今と全然違う景色になっていたはずです。ここまでブレイクしていたのかどうかもわからないし、もしブレイクしていなかったら、金子文枝氏と共にいつまでも "等身大のロック" を歌い続けていたのかもしれません。しかし、歴史は「ZUTTO」を選び、その呪縛が当時のナガマリをギュギュギュっと苦しめていくことになるのです。

作品的には4thアルバム「Miracle Girl」、5thアルバム「Catch Ball」はいずれも名盤中の名盤で、ナガマリファンに聞けば、どちらかの作品が必ず三本指の中に入るのではないかと思います。制作陣も作詞に永野椎菜氏を始め、佐野元春陣内大蔵といったレーベルの先輩たちが大きな背中を貸してくれることになり、この2年の間でアーティストとしての深みがガンガン輝き出しています。

初のオリコンチャート1位を獲得した「Pocket」は、当初バラード・ベストにしようという向きがあったらしいのですが、収録する楽曲が足りなかったということでヒット曲からライブでの定番曲を詰め込んだ内容になっています。

3.1991-1992

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名実共にトップアーティストとなるのですが、ここでなぜかナガマリは女優としてテレビドラマに出演することとなります。たぶん、今井美樹さんのような歌も歌えて演技もできてみたいなマルチアーティスト(言い方が古い!)を目指したのかもしれませんが、その出演したテレビドラマ『あの日の僕をさがして』が見事に大コケ!主演の織田裕二さんが珍しく「この作品だけは失敗作。なにもかもが中途半端」と認めた作品となってしまったのですが、その間、ナガマリは一切の音楽活動をストップして女優業に専念していました(他の演者さんへの配慮もあったと思うのですが...)。ここでも歴史のイタズラが働いているのですが、もしこのドラマが内館牧子氏や北川悦吏子氏のような女性脚本家による名作の一つとなっていたのなら、ナガマリのアーティスト人生はまた変わっていたのかもしれません。しかし、脚本を担当した山永明子氏は、女性脚本家として注目されていたものの鳴かず飛ばずであっさりとフェイドアウト。結局、かなり重要な時期の音楽活動を3ヶ月も不意にすることとなってしまったのです。

そこからです。ドラマのクランクアップと共に発表された横浜スタジアムでのライブは、それはもう「やっぱ、あたし、歌が大好きだったんやでぇ!!!」の雄叫びから始まる、ナガマリ3本指に入る屈指のライブパフォーマンスとなりました。当時、渡辺美里さんが西武ライオンズ球場で毎年恒例となるスタジアムライブを既に開催していたのに対抗して、ナガマリは横浜スタジアムでのライブを遂行。金子文枝氏の思惑通りに着々とガールポップの女王の道を歩いて行くのですが、ここで地殻変動が起こります。

6thアルバム「WASHING」のジャケットを見てわかる通りに、永井真理子のイメージと言えばショートヘアに白Tのジーパンでした。しかし、本人はそれが窮屈でならなかったそうなんです。「WASHING」に収録され、後にシングルカットもされた「私の中の勇気」の歌詞を見ると、"好きなのに今 好きと言えない" "今の自分からはみ出したいんだ" と、「ZUTTO」で形成されたパブリックイメージ、そして、金子文枝氏が描くアーティスト像との乖離が、かなり限界まで達してきていることを物語っています。

そこで登場するのが16枚目のシングル「YOU AND I」に収録された永井真理子&廣田コージの名曲「いつも いつでも」です。この曲はもともと "WASHING" のライブツアーで既に披露されていましたが、ギターを弾きながら嬉々として歌う姿は、とうとうナガマリも人が作った歌ではなく、自分自身のことを自分なりのカタチで歌う日が来たのかと嬉しく思ったものでした。

その小さなプレート断層のズレが、横浜スタジアムでのライブで大陸プレートのひずみとして僕たちの前に姿を現わしたのです。それが「Chu-Chu♥」と「La-La-La」の2曲です。しかし、僕たちはまだ気づくことができないでいました。あの横浜スタジアムで涙ながらに謝辞を述べていたのは、ここまで来れたことへの感謝だけではなく、今まで歩いてきた道への決別も込められていたのだということに。

4.1993-1995

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世の中は完全にビーイング系のアーティストがヒットチャートを席巻していました。そのブームたるや席巻なんて言葉では言い表せないほど、今までの音楽産業を根底から覆すようなビッグバンが起こったのです。80年代はカッコ悪いものとして過去の遺物として扱われ、今では想像もつかないかもしれませんがSMAPTOKIOなんてアイドルでもなんでもなくて、というか "アイドル" という言葉自体が忌み嫌われた時代でした。とにかく飾らないカジュアルなスタイルで、自分でちゃんと楽器を弾いて、口パクじゃなくて生で歌を歌ってという "本物" だけが大いにもてはやされた時代でした。

そんな中、ショートヘアに白Tにジーパンというカリカチュアされた姿を完全にゴミ箱に投げ捨て、好きだった70年代ロックを大胆に取り入れ、そして、理路整然とデザインされていた金子文枝氏の影を掻き消すように、ヒッピー的でインディー的なアートディレクションで展開された初のセルフプロデュース作品が「OPEN ZOO」でした。動物園開園!スゴくないですか?巷では "負けないで" とか "時の扉" とか "YAH YAH YAH" とかシュッとしたデザインでカッコよく歌っているのに、こっちではヒステリック・グラマー!ってオニのようなサイケデリックですよ。19枚目のシングル「大きなキリンになって」のジャケットを初めてCDショップで見た時は我が目を疑いました。このチープ感はいったいなんなんだっ?

しかし、楽曲までがチープ化したのか?というと全くの真逆で、ダイナミックで肉体的なロックのオンパレード。しかも、ライブツアーはデビュー当時以来となるライブハウスからスタートし、それがホールになり、最終的に横浜スタジアムに辿り着くという、この物語性。そして、怒涛の結婚報告。めちゃめちゃ痺れましたよ。

男性ファンの中には、確かに "結婚" と聞いて離れていってしまった人も少なからずいたかもしれませんが、巷のまとめ系などで書かれている「結婚したら人気がガタ落ち」というのは、ちょいと違うと大きな声で言いたいのです。もともと下の話もそこそこオープンだったのはファンなら周知の事実で、そんな理由で本気で離れていったとしたのなら、なかなかに脳内アイドル化されていたのかなとも思ってしまいます。

しかし、現にセルフプロデュースになってからはアルバムはトップ10ヒットになるものの、シングルについては1枚もありません。これは先述したビーイング系のアーティストが強力なタイアップのもとに毎週のようにシングルを発売していたのに対して、ナガマリはほとんどノンタイアップ。音楽番組への出演も激減し、とにかくいきなりメディアから姿を消したような状態になっているのです。あえてふるいにかけた。そう言い換えることもできるのかもしれません。

僕的には21枚目のシングル「We are OK!」に収録された「ルーシータクシー」から始まる怒涛の「Love Eater」シーズンがナガマリ人生の最大のピークでした。荘厳にステージングされた「夜空にのびをして」や「動かないで」は自分の中ではベストワンなライブ。とにかく "Love Eater" のツアーは通いました。すごい好きでした。

1995年になるとブリットポップの隆盛、そしてライブハウス通いに慣れてしまい、モッシュやダイブのないライブはライブじゃないと、完全にホールコンサートからは遠のいてしまいました。そんな時代を肌で感じたのでしょうか、ナガマリも育児休暇へと突入していきます。

5.1996-1997

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レーベルとの契約上、何かしら商品は売り出さなければいけないらしく、息子さんを出産した頃にはベストアルバムの乱立が目立つようになってしまいます。ロックとバラードとテーマ別にしたベストはまだ良しとしても、詰め合わせ的なベストはある意味アーティストのイメージを完全に過去の人として葬ってしまう力があります。

そして、デビュー時から在籍していたファンハウスも、運命のようにBMGビクターの子会社となり、ナガマリはデビュー10年の節目でレコード会社を移籍することとなります。

6.1998-2002

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東芝EMIへの移籍後、戦友のドリカム中村正人氏とコラボレートした29枚目のシングル「真夏のイヴ」で復活の狼煙を上げますが、時は1997年、時代はCD売上枚数を競い合うバブル真っ只中、ナガマリ出産後の復帰は傍から見ると地味なものでした。さらには第1回目のフジロックフェスティバルが富士山の麓、富士天神山スキー場で開催され、悪天候のため2日目は中止という事態に。海外アーティストだけでなく日本のアーティストも一緒くたになったロックフェスティバルの開催は、いよいよ世界がグローバル化し始めている、もしくは日本のマーケットが世界に通用し始めたことを如実に物語っていました。

そんな中で発売された記念すべき10枚目のアルバム「You're...」は、肩の力が抜けた等身大の歌がつまった佳作。しかし、ミレニアムに発売された11thアルバム「ちいさなとびら」になると、今までこだわっていた永井真理子&廣田コージを完全撤廃。これはアルバムをコーディネートした西川進氏が屈指のギタリストだったため、あえて提供曲に身を委ねてみるという試みだったのではないかと思うのですが、ファンからすると、おいおい、夫婦関係大丈夫なのか?といらぬ心配をする羽目になってしまうという(それを言うと9thアルバム「KISS ME KISS ME」の裏ジャケで、なんであんたはマッシーと写真撮ってんねん!とツッコミを入れたファンも多かったと思う)※追記、2020年7月のツイッターで写真の人物はロックフォトグラファー三浦憲治氏だと知りました。これだから、にわかは怖いですねw

さらに続く12枚目のアルバム「そんな場所へ」も西川進氏の主導で制作されたギターロック全開の作品となっていますが、ここで約5年ぶりくらいに永井真理子&廣田コージが復活します。特に「Angel Smile」の往年のギターリフ、エバーグリーンなアコギ、そして伸びやかなボーカルで歌い上げたのは "次はどこへ行こう" という新たなステージへの決心でした。

7.2003-2006

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なぜ移住先がオーストラリアだったのかはわかりません。ただ、なんとなく想像できるのは日本での活動に息苦しさを感じ、メジャーレーベルでなくても音楽活動ができるという時代の追い風もあって、自由気ままにやっていこうじゃないかとビューンと飛行機に乗ったのではないかと。

いずれにしても自主レーベルを立ち上げ、作りたいように作った13枚目のアルバム「AIR」は大陸的な開放感溢れるギターリフから始まる「やさしい空気」をはじめ、ビートルズへのリスペクトが半端ない「私を救う薬」など、どこかカントリー的な緩やかな時を感じさせる優しい曲と「Tobujikandesu」のようなシンプルなロックチューンが織り交ざった作品に仕上がっています。しかし、インディーなだけあって簡単に手に入れることができず、amazonでは人の足元を見て3万円なんていう法外な値段でファンを釣り上げようとしている輩まで登場。誰がそんなエサにひっかかるんっちゅうかってね。

さらに14枚目のアルバム「Sunny Side up」はこれまた名盤です。東芝EMIでいいように擦り減っていったナガマリが、やっと前の明るさというか、自由奔放な等身大な姿を取り戻したと言うか、「Paper Plane」の跳ねたリズムに うぉぉぉぉぉ! と狂喜乱舞、「ミエナイアシタ」に やべぇぇぇぇぇ と感動。しかし、このアルバムも簡単に手に入れることができず。できればナガマリ全曲デジタル配信して欲しいところではあるのですが、なかなか難しいのでしょうか。

8.2007-2017

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デビュー20周年を迎えた2007年からオフィシャルブログ『HELLO!!』を開始、そしてオールタイムベスト「my foot steps」を発売、過去の映像作品が次々とDVD化され、機運は右肩上がりかと思われましたが、そこからパタッと10年の空白期間に入ります。

仕方がなかったのかもしれません。1997年のCDバブルの頃とは打って変わり、パソコンの普及により音楽ファイルが手軽に作れるようになると、誰も彼もが独自のプレイリストを簡単に作成し、新しい音楽が必要なくなっていきました。さらにYouTubeのメインストリーム化はフリーミュージックをさらに推し進め、CDなんてなくても手軽に音楽ライフを楽しめる時代が訪れたのです。音楽ビジネスは作品制作よりもライブ動員数を上げることにシフトし、完全に消費対象は "モノ" ではなく "コト" に移ったのです。

誰が何と言ってもオレのナガマリは根岸編曲の金子文枝時代だぜっ!と言い切る気持ちももちろんわかります。いやいや、あんなピコピコな根岸編曲よりもヒステリック・グラマーが最高に決まっているじゃないか、と豪語する人も正解です。甘いね、カフェライブの「Sunny Side up」を体験してこそナガマリを語る資格があるんだよと説教を始める人は、ちょっと苦手かもしれません...。

いずれにしてもですよ、2017年にナガマリが帰ってきました。巷では50オーバーなんて信じられんっ!この若さはなんなんだっ!と騒がれ、あっさり "フォトショ加工なのだっ!" と身も蓋もない事をヌケヌケとさらけ出す、相変わらずのナガマリが帰ってきました。アットホームなアコギライブが終わり、いよいよバンドでのライブ活動を始めるというのも楽しみすぎます。

オフィシャルブログで発表されていたABCラジオでの人気投票の1位は「私の中の勇気」でした。"今の自分からはみ出したい" と声を上げてから約30年。ファンはその軌跡を見ながら、たぶん、今までにない最高で幸福なステージに立っているナガマリの姿に、いろんな勇気や希望をもらっているのではないかと思います。もちろん、僕もそのうちの一人です。そんな想いの結果が「私の中の勇気」ではないかと。ああ、生きててよかった。

ナガマリ、おかえりっ!