that passion once again

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【連続テレビ小説「なつぞら」】第10週 今は振り返りません。私はここで生きていきます。

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日本中が「天陽くん!天陽くん!」と沸きに沸いた週末。やっぱ、北海道の人たちが出てくるとテンション上がるよね。今まで頑なに "馬" だけを描いてきた天陽くんが世間に認められ、なんとなく馬以外のものを描きたくなった彼が心のままに決めたテーマがなっちゃん

マジか...。

 

ちょっとマジメに考えてしまうのですが、天陽くんが絵のテーマに "なっちゃん" を選んだということは、自分の中にある "イノセント" を暴き出そうと、純真無垢な部分を吐き出そうとしていたのではないかと、そう感じてしまうわけです。

捨てきれない想い。

恋焦がれる心。

つながりたい欲望。

そんな思春期の誰もが抱える感情をキャンバスにぶつけ、自分の中の "イノセント" を思いの丈いっぱいで吐き出したのではないかと。物語的には『白蛇姫』の主人公である白娘(パイニャン)の悲恋とシンクロさせることで、より奥行きのある構成になっているところも見逃せません。

しかし、天陽くんは気づきます。

違う。

ここから踏み出さなきゃいけない。

ここに留まっていてはいけない。

そもそも留まることができない。

実らせることができない...。

その一大決心が "イノセント" を真っ赤な絵の具で塗り潰すという行為。自分の中の "イノセント" を掻き切るという行為。それが "大人" になるという行為なのではないかと。その姿にめちゃめちゃ心が揺さぶられたのです。

 

その一方で "ラブレター熊" とか訳のわかんないプロポーズで、あっさり砂良さんと結ばれた照男兄ちゃん。いやぁ...、弥市郎さん、いいの?やっぱ撃ち殺しとくべきだったんじゃない?(笑)なにはともあれ、照男兄ちゃん、おめでとう!これで砂良さんも柴田家の人間かぁ...。おんじは砂良さんをどう迎え入れるんだろう?

 

仲ちゃん推しで次々とチャンスが巡ってくるなっちゃん。しかし、ことごとくそのチャンスをつかめない。それでも仲ちゃん推しは止まらない。

脚本の大森寿美男先生は、なっちゃんは受動的なキャラクターだと宣言しています。仲ちゃんに才能があると言われその気になり、着るモノは亜矢美さんの趣味に染まり、洞察力の鋭いマコさんには「あんた、田舎者であることを自慢してるでしょ?」とガサツなところを一刀両断されました。

オムレツを食べれば口にケチャップをつけ、試験が合格すれば下宿の2階の部屋で足をバタバタさせ、ながら食いでひたすら絵を描き続け、食べたものは片づけない。夕見子ちゃんの存在も、おんじの存在も大きかったのですが、北海道でのなっちゃんは、もう少しお行儀がよかったような気もします。それがフーテン咲太郎のそばに来た途端、かつての妹に戻ったというか、東京の忙しなさに染まったというか、ある意味ではそこが受動的なのかもしれません。

人間というのは不思議なもので、環境に慣れてしまう生き物です。大地震が起きて、発電所が壊れ、思うように電気が使えなくて、計画停電で不便な思いをしてから8年以上も経つと、今では電気なしでは使えないスマホSNSが世間に溢れかえっています。その有難みがすっかり鳴りを潜め、もはやクラウドとかネットというのは空気と同じぐらいの感覚でいます。キャッシュレスとか通販とか、とにかく当たり前のものとして存在しています。しかし、これは幻影です。次にまた何かしらの天変地異が起こり、電気が使えない、充電ができない、サーバーそのものがダウンしてしまうなど予測不能の事態が起きた時、僕のこんな駄文はもちろん、膨大な写真や動画は瞬く間に消えてしまいます。人の世とは儚いものです。

まあ、そんな起こるか起こらないかわからないものを考えても仕方がありませんが、とにかくマコさんのような自分の意思を貫く人間よりも、なっちゃんのような周りの環境に受動的な人の方が圧倒的に多いと思うのです。

元警察官の川島...、いや下山さんが語っていたように「アニメーション」という単語はラテン語の "魂" を意味するanima(アニマ)が語源になっています。命のない動かないもの、存在のないものに "魂" を吹き込む。それがなっちゃんの "挑戦" です。ネットやAIでも、そこに "魂" のあるものは人の心を動かします。絵画も彫刻も音楽も演劇も、全て無から生まれ、人の "魂" を震わせています。僕たちは、その感動を糧にして、今日を生きています。明日に思いを馳せます。何かを踏み出す一歩の勇気をもらいます。

 

フーテン咲太郎が持ち込んできた次の公演は『人形の家』だそうです。なっちゃんは「そんなにちっちゃいの?」と天然マダムみたいなことを言ってましたが、いやいや、雪次郎くんが飛び跳ねて喜んでいたように、フェミニズム運動の象徴のような作品を嬉々として語るあたり、さすが夕見子ちゃん好き好き雪次郎くんなところがあります。咲太郎的には、あの松井須磨子嬢のようなスターを輩出するぞ!ぐらいの気概しか持ち合わせていないかもしれませんが、そんなサイドストーリーにも製作者たちのこだわりを感じます。

女性解放運動、さらには美術大学も出ていない、絵の勉強も独学、そんななっちゃんが社会的な地位を確立していく。その姿には階級や年齢・性別などの自由を謳う物語として、封建的な社会から民主的な社会への動向も盛り込まれています。ただ、その象徴である亜矢美さんが視聴者にそんなに受け入れられず、逆に封建的なおんじが視聴者の絶大な支持を得ているのは、なんだかんだ言って、日本もまだまだ封建的な考え方から逸脱できていないのではないかとも思ってしまいます。

働き方改革で、とかく "こなすこと" に視点が集中しがちですが、合理的な生産性を語る前に、まずそれが "楽しい" ことなのかどうかが問題なのではないかと思います。もちろん、みんながみんな楽しく生きていければ、そんなに素晴らしい世界は他にないと思いますが...。労働者解放運動でみんな5時以降は自由に生きていいぞ!と言われると何をしたらいいかわからず途方に暮れてしまい、逆に封建的に上司や社長から、お前ら徹夜してでもこれだけやるんだ!やれ!やれ!と叱咤激励された方が働きやすいこともあるのではないかと。違いは、そこに "楽しさ" があるかないか。5時以降に何か "楽しい" ことがあれば、それはとても自由なことだし、愛のある尊敬すべき上司や社長の命令ならば、それに従い結果を出すことも、また "楽しい" ことなのです。

 

試験は不合格。

絵も下手。

基礎も知らない。

そんななっちゃんですが、実に "楽しく" 生きています。

僕たちもそれに便乗しちゃいましょう。

がんばろう、なっちゃん