that passion once again

日々の気づき。ディスク・レビューや映画・読書レビューなどなど。スローペースで更新。

勝手に永井真理子論

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去年(2017年)の2月頃、冗談まじりにナガマリ30周年ベストのフェイクニュースをブログに上げたのです。

そうしましたら、その4ヶ月後の6月中旬ですよ。この弱小ブログのアクセス数が急激に上がりまして、いったい何が起きたんだっ!と思っていたら、リアルにナガマリが復活すると!!!しかも10年ぶりの新曲まで出ると!!!!!!どうやらそれ関連でみんなこのアホみたいな記事に流れ込んできたらしいと...。はい、すいません。まさか復活して新曲まで出るなんて思わないじゃん...。

感涙モノの「Life is beautiful」「Starting」「I know right?」「私たちの物語」、素朴な「ミルク飴の味~for my mother~」(その後に発売されたフィジカル盤には「幸運の女神よ」「Winter song」の2曲が追加)、さらには東京・大阪のライブから追加公演、んでもって今年も単独ライブの開催(東京公演は既にソールドアウト)にフェス参加、またまた新曲まで発表されるらしいと、ああ、生きててよかった。

今月の25日には20数年ぶりにテレビにも出演するらしく、6月宣言(勝手に命名)の通りにナガマリペースで徐々に活動の場が拡がっている模様です。

しかし、ふと思いました。"永井真理子" で検索してもヒットするのは「あの人は今?」みたいな下世話な記事ばかり。そもそも若い世代には "永井真理子" なんて言ってもわかるわけがなく、篠田麻理子のパクリですか?とか、最近では同姓ちょっと同名な "永井真里子" さんなんていう声優さんまで出現。てなわけで、にわかファンの僕が、ここで勝手に永井真理子論を展開しちゃいましょうかと。ディスコグラフィーから作品解説までナガマリ・クロニクルを網羅しちゃいましょうかと。Wikipediaには書いてない情報までいっちゃいましょうかと。そんな感じで、なんか最近ナガマリ熱が上がってきたのでその勢いのまんま、まるっと30年を総論しまっせ、姐さん。

1.1987-1988

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ナガマリのデビューは1987年7月22日。奇しくも先日記事にしたガンズ・アンド・ローゼズと同期になります。今さらですがビックリです。ガンズとナガマリを同列にするなんて、ガンズ・ファンから怒られそうな感じもしますが、まあ、たぶんお互いに大人だし、そんなこと気にしないと言ってくれるかもしれないし、そもそもナガマリなんて眼中にないと斬り捨てられて終わるだけかもしれません。いずれにしても、デビューして1年半の間にアルバムを4枚も発売(1枚はベスト盤)。シングルは全部で6枚。今では考えられないくらい超ハイペースです。

この時期でファンになった人は「瞳・元気」や「ロンリイザウルス」をフェイバリットソングに挙げる人が多いです。ちょっとコアになると「親友」や「少年」、ナガマリ初の作詞ソング「Mariko」なども挙がってきます。ライブでは定番だった「Slow Down Kiss」「Step Step Step」もこの頃の曲。ナガマリのイメージを既に確立しています。

1stアルバム「上機嫌」から亜伊林が作詞に参加、根岸貴幸氏が全曲の編曲を担当しています。デビュー前のバンド仲間だった前田克樹氏も作曲で参加、2ndアルバム「元気予報」からは辛島美登里氏も作曲陣に加わり、既に盤石の布陣が整っているのも特徴です。

当時のヒットチャートを見ると中森明菜、荻野目洋子、中山美穂小泉今日子、少年隊と80年代アイドルがちょっとアーティストっぽく振る舞うようになり、安全地帯やBOOWYレベッカなど今で言う伝説的なバンドがガッツリと現役でブイブイ言わせてた頃になります。渡辺美里や杏里、今井美樹岡村孝子などガールポップの先駆的女性アーティストが注目され始め、たぶん、プロデューサーの金子文枝氏の中では、その輪の中にナガマリ投入を企んでいたのではないかと思われます。

2.1989-1990

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永井真理子が世間に認知されたのは上記の3枚だと断言してよいのではないかと思うのですが、その中でも特筆すべきは「ミラクル・ガール」と「ZUTTO」の2曲に絞られてきます。前者はかの浦沢直樹氏の代表作『YAWARA!』のテレビアニメのオープニングナンバー。後者は圧倒的なバラエティー女王であった山田邦子さんの人気番組『やまだかつてないテレビ』のエンディング曲。いずれにしても当時の人気テレビ番組とのタイアップにより、ナガマリの知名度は瞬く間に全国区となり、僕を含めてにわかファンが大量に発生することとなりました。

この時期に発表されたアルバムは3枚(1枚はベスト盤)。シングルは前期同様6枚になります。オリコントップ10入りとなったのは「ミラクル・ガール」「White Communication ~新しい絆~」「ZUTTO」の3曲。アルバムに至っては5thアルバム「Catch Ball」が1990年の年間アルバムチャートの25位、2ndベストアルバム「Pocket」は自身初のオリコンチャート1位を獲得しています。このチャートアクションだけを見ても当時のナガマリ人気がいかにグツグツと過熱していったかを物語っています。

ただ、この人気の過熱が後のセルフプロデュースへの布石となってしまったのも事実であり、良くも悪くも「ZUTTO」がナガマリのアーティスト人生を決定づけてしまったと言えるのです。

そもそも、この代表曲である「ZUTTO」は実はB面扱いで、両A面でもカプリング扱いだった「EVERYTHING」が、もともと『やまだかつてないテレビ』のエンディング曲として制作されていたらしいのです。「ZUTTO」のシングル盤のジャケットを見ても、自転車で颯爽と走っていくビジュアルが使用され、これは「EVERYTHING」の歌詞 "That's all right 風の中へと 今をぶつけて進んでゆく" をイメージしたものでした。しかし、テレビ局側はそれよりも「ZUTTO」を気に入ったらしく、急遽差し替えになったと。

例えば、ナガマリの代表曲が「EVERYTHING」になっていたら、その世界は今と全然違う景色になっていたはずです。ここまでブレイクしていたのかどうかもわからないし、もしブレイクしていなかったら、金子文枝氏と共にいつまでも "等身大のロック" を歌い続けていたのかもしれません。しかし、歴史は「ZUTTO」を選び、その呪縛が当時のナガマリをギュギュギュっと苦しめていくことになるのです。

作品的には4thアルバム「Miracle Girl」、5thアルバム「Catch Ball」はいずれも名盤中の名盤で、ナガマリファンに聞けば、どちらかの作品が必ず三本指の中に入るのではないかと思います。制作陣も作詞に永野椎菜氏を始め、佐野元春陣内大蔵といったレーベルの先輩たちが大きな背中を貸してくれることになり、この2年の間でアーティストとしての深みがガンガン輝き出しています。

初のオリコンチャート1位を獲得した「Pocket」は、当初バラード・ベストにしようという向きがあったらしいのですが、収録する楽曲が足りなかったということでヒット曲からライブでの定番曲を詰め込んだ内容になっています。

3.1991-1992

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名実共にトップアーティストとなるのですが、ここでなぜかナガマリは女優としてテレビドラマに出演することとなります。たぶん、今井美樹さんのような歌も歌えて演技もできてみたいなマルチアーティスト(言い方が古い!)を目指したのかもしれませんが、その出演したテレビドラマ『あの日の僕をさがして』が見事に大コケ!主演の織田裕二さんが珍しく「この作品だけは失敗作。なにもかもが中途半端」と認めた作品となってしまったのですが、その間、ナガマリは一切の音楽活動をストップして女優業に専念していました(他の演者さんへの配慮もあったと思うのですが...)。ここでも歴史のイタズラが働いているのですが、もしこのドラマが内館牧子氏や北川悦吏子氏のような女性脚本家による名作の一つとなっていたのなら、ナガマリのアーティスト人生はまた変わっていたのかもしれません。しかし、脚本を担当した山永明子氏は、女性脚本家として注目されていたものの鳴かず飛ばずであっさりとフェイドアウト。結局、かなり重要な時期の音楽活動を3ヶ月も不意にすることとなってしまったのです。

そこからです。ドラマのクランクアップと共に発表された横浜スタジアムでのライブは、それはもう「やっぱ、あたし、歌が大好きだったんやでぇ!!!」の雄叫びから始まる、ナガマリ3本指に入る屈指のライブパフォーマンスとなりました。当時、渡辺美里さんが西武ライオンズ球場で毎年恒例となるスタジアムライブを既に開催していたのに対抗して、ナガマリは横浜スタジアムでのライブを遂行。金子文枝氏の思惑通りに着々とガールポップの女王の道を歩いて行くのですが、ここで地殻変動が起こります。

6thアルバム「WASHING」のジャケットを見てわかる通りに、永井真理子のイメージと言えばショートヘアに白Tのジーパンでした。しかし、本人はそれが窮屈でならなかったそうなんです。「WASHING」に収録され、後にシングルカットもされた「私の中の勇気」の歌詞を見ると、"好きなのに今 好きと言えない" "今の自分からはみ出したいんだ" と、「ZUTTO」で形成されたパブリックイメージ、そして、金子文枝氏が描くアーティスト像との乖離が、かなり限界まで達してきていることを物語っています。

そこで登場するのが16枚目のシングル「YOU AND I」に収録された永井真理子&廣田コージの名曲「いつも いつでも」です。この曲はもともと "WASHING" のライブツアーで既に披露されていましたが、ギターを弾きながら嬉々として歌う姿は、とうとうナガマリも人が作った歌ではなく、自分自身のことを自分なりのカタチで歌う日が来たのかと嬉しく思ったものでした。

その小さなプレート断層のズレが、横浜スタジアムでのライブで大陸プレートのひずみとして僕たちの前に姿を現わしたのです。それが「Chu-Chu♥」と「La-La-La」の2曲です。しかし、僕たちはまだ気づくことができないでいました。あの横浜スタジアムで涙ながらに謝辞を述べていたのは、ここまで来れたことへの感謝だけではなく、今まで歩いてきた道への決別も込められていたのだということに。

4.1993-1995

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世の中は完全にビーイング系のアーティストがヒットチャートを席巻していました。そのブームたるや席巻なんて言葉では言い表せないほど、今までの音楽産業を根底から覆すようなビッグバンが起こったのです。80年代はカッコ悪いものとして過去の遺物として扱われ、今では想像もつかないかもしれませんがSMAPTOKIOなんてアイドルでもなんでもなくて、というか "アイドル" という言葉自体が忌み嫌われた時代でした。とにかく飾らないカジュアルなスタイルで、自分でちゃんと楽器を弾いて、口パクじゃなくて生で歌を歌ってという "本物" だけが大いにもてはやされた時代でした。

そんな中、ショートヘアに白Tにジーパンというカリカチュアされた姿を完全にゴミ箱に投げ捨て、好きだった70年代ロックを大胆に取り入れ、そして、理路整然とデザインされていた金子文枝氏の影を掻き消すように、ヒッピー的でインディー的なアートディレクションで展開された初のセルフプロデュース作品が「OPEN ZOO」でした。動物園開園!スゴくないですか?巷では "負けないで" とか "時の扉" とか "YAH YAH YAH" とかシュッとしたデザインでカッコよく歌っているのに、こっちではヒステリック・グラマー!ってオニのようなサイケデリックですよ。19枚目のシングル「大きなキリンになって」のジャケットを初めてCDショップで見た時は我が目を疑いました。このチープ感はいったいなんなんだっ?

しかし、楽曲までがチープ化したのか?というと全くの真逆で、ダイナミックで肉体的なロックのオンパレード。しかも、ライブツアーはデビュー当時以来となるライブハウスからスタートし、それがホールになり、最終的に横浜スタジアムに辿り着くという、この物語性。そして、怒涛の結婚報告。めちゃめちゃ痺れましたよ。

男性ファンの中には、確かに "結婚" と聞いて離れていってしまった人も少なからずいたかもしれませんが、巷のまとめ系などで書かれている「結婚したら人気がガタ落ち」というのは、ちょいと違うと大きな声で言いたいのです。もともと下の話もそこそこオープンだったのはファンなら周知の事実で、そんな理由で本気で離れていったとしたのなら、なかなかに脳内アイドル化されていたのかなとも思ってしまいます。

しかし、現にセルフプロデュースになってからはアルバムはトップ10ヒットになるものの、シングルについては1枚もありません。これは先述したビーイング系のアーティストが強力なタイアップのもとに毎週のようにシングルを発売していたのに対して、ナガマリはほとんどノンタイアップ。音楽番組への出演も激減し、とにかくいきなりメディアから姿を消したような状態になっているのです。あえてふるいにかけた。そう言い換えることもできるのかもしれません。

僕的には21枚目のシングル「We are OK!」に収録された「ルーシータクシー」から始まる怒涛の「Love Eater」シーズンがナガマリ人生の最大のピークでした。荘厳にステージングされた「夜空にのびをして」や「動かないで」は自分の中ではベストワンなライブ。とにかく "Love Eater" のツアーは通いました。すごい好きでした。

1995年になるとブリットポップの隆盛、そしてライブハウス通いに慣れてしまい、モッシュやダイブのないライブはライブじゃないと、完全にホールコンサートからは遠のいてしまいました。そんな時代を肌で感じたのでしょうか、ナガマリも育児休暇へと突入していきます。

5.1996-1997

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レーベルとの契約上、何かしら商品は売り出さなければいけないらしく、息子さんを出産した頃にはベストアルバムの乱立が目立つようになってしまいます。ロックとバラードとテーマ別にしたベストはまだ良しとしても、詰め合わせ的なベストはある意味アーティストのイメージを完全に過去の人として葬ってしまう力があります。

そして、デビュー時から在籍していたファンハウスも、運命のようにBMGビクターの子会社となり、ナガマリはデビュー10年の節目でレコード会社を移籍することとなります。

6.1998-2002

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東芝EMIへの移籍後、戦友のドリカム中村正人氏とコラボレートした29枚目のシングル「真夏のイヴ」で復活の狼煙を上げますが、時は1997年、時代はCD売上枚数を競い合うバブル真っ只中、ナガマリ出産後の復帰は傍から見ると地味なものでした。さらには第1回目のフジロックフェスティバルが富士山の麓、富士天神山スキー場で開催され、悪天候のため2日目は中止という事態に。海外アーティストだけでなく日本のアーティストも一緒くたになったロックフェスティバルの開催は、いよいよ世界がグローバル化し始めている、もしくは日本のマーケットが世界に通用し始めたことを如実に物語っていました。

そんな中で発売された記念すべき10枚目のアルバム「You're...」は、肩の力が抜けた等身大の歌がつまった佳作。しかし、ミレニアムに発売された11thアルバム「ちいさなとびら」になると、今までこだわっていた永井真理子&廣田コージを完全撤廃。これはアルバムをコーディネートした西川進氏が屈指のギタリストだったため、あえて提供曲に身を委ねてみるという試みだったのではないかと思うのですが、ファンからすると、おいおい、夫婦関係大丈夫なのか?といらぬ心配をする羽目になってしまうという(それを言うと9thアルバム「KISS ME KISS ME」の裏ジャケで、なんであんたはマッシーと写真撮ってんねん!とツッコミを入れたファンも多かったと思う)※追記、2020年7月のツイッターで写真の人物はロックフォトグラファー三浦憲治氏だと知りました。これだから、にわかは怖いですねw

さらに続く12枚目のアルバム「そんな場所へ」も西川進氏の主導で制作されたギターロック全開の作品となっていますが、ここで約5年ぶりくらいに永井真理子&廣田コージが復活します。特に「Angel Smile」の往年のギターリフ、エバーグリーンなアコギ、そして伸びやかなボーカルで歌い上げたのは "次はどこへ行こう" という新たなステージへの決心でした。

7.2003-2006

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なぜ移住先がオーストラリアだったのかはわかりません。ただ、なんとなく想像できるのは日本での活動に息苦しさを感じ、メジャーレーベルでなくても音楽活動ができるという時代の追い風もあって、自由気ままにやっていこうじゃないかとビューンと飛行機に乗ったのではないかと。

いずれにしても自主レーベルを立ち上げ、作りたいように作った13枚目のアルバム「AIR」は大陸的な開放感溢れるギターリフから始まる「やさしい空気」をはじめ、ビートルズへのリスペクトが半端ない「私を救う薬」など、どこかカントリー的な緩やかな時を感じさせる優しい曲と「Tobujikandesu」のようなシンプルなロックチューンが織り交ざった作品に仕上がっています。しかし、インディーなだけあって簡単に手に入れることができず、amazonでは人の足元を見て3万円なんていう法外な値段でファンを釣り上げようとしている輩まで登場。誰がそんなエサにひっかかるんっちゅうかってね。

さらに14枚目のアルバム「Sunny Side up」はこれまた名盤です。東芝EMIでいいように擦り減っていったナガマリが、やっと前の明るさというか、自由奔放な等身大な姿を取り戻したと言うか、「Paper Plane」の跳ねたリズムに うぉぉぉぉぉ! と狂喜乱舞、「ミエナイアシタ」に やべぇぇぇぇぇ と感動。しかし、このアルバムも簡単に手に入れることができず。できればナガマリ全曲デジタル配信して欲しいところではあるのですが、なかなか難しいのでしょうか。

8.2007-2017

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デビュー20周年を迎えた2007年からオフィシャルブログ『HELLO!!』を開始、そしてオールタイムベスト「my foot steps」を発売、過去の映像作品が次々とDVD化され、機運は右肩上がりかと思われましたが、そこからパタッと10年の空白期間に入ります。

仕方がなかったのかもしれません。1997年のCDバブルの頃とは打って変わり、パソコンの普及により音楽ファイルが手軽に作れるようになると、誰も彼もが独自のプレイリストを簡単に作成し、新しい音楽が必要なくなっていきました。さらにYouTubeのメインストリーム化はフリーミュージックをさらに推し進め、CDなんてなくても手軽に音楽ライフを楽しめる時代が訪れたのです。音楽ビジネスは作品制作よりもライブ動員数を上げることにシフトし、完全に消費対象は "モノ" ではなく "コト" に移ったのです。

誰が何と言ってもオレのナガマリは根岸編曲の金子文枝時代だぜっ!と言い切る気持ちももちろんわかります。いやいや、あんなピコピコな根岸編曲よりもヒステリック・グラマーが最高に決まっているじゃないか、と豪語する人も正解です。甘いね、カフェライブの「Sunny Side up」を体験してこそナガマリを語る資格があるんだよと説教を始める人は、ちょっと苦手かもしれません...。

いずれにしてもですよ、2017年にナガマリが帰ってきました。巷では50オーバーなんて信じられんっ!この若さはなんなんだっ!と騒がれ、あっさり "フォトショ加工なのだっ!" と身も蓋もない事をヌケヌケとさらけ出す、相変わらずのナガマリが帰ってきました。アットホームなアコギライブが終わり、いよいよバンドでのライブ活動を始めるというのも楽しみすぎます。

オフィシャルブログで発表されていたABCラジオでの人気投票の1位は「私の中の勇気」でした。"今の自分からはみ出したい" と声を上げてから約30年。ファンはその軌跡を見ながら、たぶん、今までにない最高で幸福なステージに立っているナガマリの姿に、いろんな勇気や希望をもらっているのではないかと思います。もちろん、僕もそのうちの一人です。そんな想いの結果が「私の中の勇気」ではないかと。ああ、生きててよかった。

ナガマリ、おかえりっ!