that passion once again

日々の気づき。ディスク・レビューや映画・読書レビューなどなど。スローペースで更新。

The Raconteurs、11年ぶりのスタジオ・アルバムがビルボード200で初登場1位を記録

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やっぱジャック・ホワイトってスゲーんだなと思いました。

今年の4月に急遽来日公演を行ったザ・ラカンターズが、前作「Consolers of the Lonely」から11年ぶりに発表した通算3枚目のスタジオ・アルバムが、R&Bだヒップホップだ映画のサントラばかりのビルボード・チャートで、なんと初登場1位!しかも、バンドとしても初の快挙とくるのだから異色すぎます。

このアルバム、なんにも新しいところがありません。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルやイーグルスの焼き直しって言ってしまえば、それで終わってしまいそうなアルバムです。日本で例えるなら、B'zが今さら新たにエアロスミスの曲をパク...失礼、リスペクトしたような感じ、上杉昇がいきなりWANDSを復活させて「Welcome to the Forest」なんていう曲を発表するみたいな感じ、T-BOLANが「Higher Than the Moon」なんていう曲を...、もうやめましょうか。この21世紀に、この令和の時代に、なんていう前時代的な!(アメリカには令和なんて関係ないけどね...)

YouTubeなどの再生回数がいきなり億を超えるわけでもなく、iTunesなどのダウンロード数でぶっちぎりというわけでもないのに、なぜビルボードのトップ200でいきなり1位を獲得したのか?しかもマルーン5のようにポップでもなければ、ブラック・ミュージックに迎合しているわけでもないのに、ジャック・ホワイトはいったい何をしたのか?ちょうどチャートの谷間だっただけなのか?来週はいきなり20位とか40位に落ち込むのか?いずれにしても、クラシカル・ロック・アルバムと呼んでもおかしくないこのアルバムが1位を獲得したことは、「ロックは死んだ」と言われ続けたこの21世紀に、死んで生き返ったことを告げる天使のラッパになるのかもしれない。

こんなゴリゴリのガレージ・ロック、久しぶりに聴きました。なんか、急に1994年発売のザック・ワイルド「Pride & Glory」を思い出しました。昨日のエド・シーラン&クリス・ステイプルトンといい、なんかロックがキテますよ。ウッドストック50の中止は残念だけど、そのスピリチュアルな部分は、今後のシーンに徐々に影響を与え始めているのかもしれません。

エド・シーラン×ブルーノ・マーズ×クリス・ステイプルトンの「BLOW」が神すぎる

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もうすぐ発売になるエド・シーランのコラボレーション・アルバム「No.6 コラボレーションズ・プロジェクト」から、大本命のブルーノ・マーズとのコラボ曲のリリックビデオが本日から公開されました。この曲がヤバすぎる!まずは聴けぇ!

カントリー歌手、クリス・ステイプルトンとの、このグラミー受賞者3名による夢のようなコラボ曲はいったいどんなものになるのだろうと思っていましたが、まさかのジミヘンですよ!ヤバッ!

あまりにもカッコよすぎて、シビれすぎて、歌詞のまんま!興奮が止まらないよ!

U2の13年ぶりの来日公演は「Songs of...」二部作の失敗を意味している気がしてならない

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先月、というか5月末日に突如として発表されたU2の来日報道。前回の "Vertigo Tour" から実に13年ぶりの来日、しかもプレミアム中のプレミアム・ツアーだった "The Joshua Tree Tour" を再開するとあって、国内に限らず、世界各国から観光がてらに日本やシンガポールやオーストラリアに足を延ばす熱狂的なU2ファンも多いのではないかと思います。"Experience+Innocence Tour" のフィナーレで「もうU2を40年もやってきたし、この最新ツアーも4年も続けた。これでやっと離れられるんだ...」とボノが意味深なことをステージで語ったものだから、この "The Joshua Tree Tour" の再開に狂喜乱舞して全公演制覇する強者も出てきそうな勢いです。

ニュージーランドからリスタートするこのツアーは、オーストラリアの主要5都市を練りまわった後、シンガポールを経由してここ日本に到着し、韓国の高尺スカイドームでフィナーレを迎えます。各ステージ5万人前後の収容数を誇る中で、さいたまスーパーアリーナが3万人強、韓国の高尺スカイドームも3万人弱と、最終的にステージセットを小ぶりにしていくスケジュールが組まれているようです。収容人数が少ない=チケットの熾烈な争奪戦が予想され、さらには超プレミアム・ツアーとなれば、寄付金集めのスペシャルシート6万円や自動REDグッズお買い上げシート4万円は別にして、16,000円から20,000円のチケット代は普通のような感じ。たぶん、秒でソールドアウトです。

しかし、この一連の動きを見ると、二部作として制作された「Songs of Innocence」と「Songs of Experience」が、バンド本人たちが豪語するほど世間には受け入れられなかったことの裏返しのような気がしてならないのです。

振り返ればデジタル世代のイコンとして登場した iPod のイメージキャラクターとして、appleとガッチリ手を組んだ「How to Dismantle an Atomic Bomb」と "Vertigo Tour" まではよかったのですが、"PopMart Tour" の悪夢再びになってしまった "U2 360° Tour" と「No Line on the Horizon」から、どうも雲行きが怪しいままになっています。そして、雲行きの怪しいツアーは北米とヨーロッパをまわっておしまいにしちゃう傾向が強い。となれば、ここで "The Joshua Tree Tour" を復活させたのは、もう鉄板だから間違いがないでしょうということではないかと。みんなぁ~、赤字決済するからバンバンお賽銭投げ込んでくらはいなぁ~!と。そんな風に自ら認めちゃってることにならないかい?と。

アルバム全曲をライブで曲順通りに演奏するというのも、僕の記憶の中ではsuede復活のスペシャル・ギグぐらいではないかと思います。1st「suede」2nd「dog man star」3rd「coming up」と各アルバムを一夜ずつアルバムの曲順通りに演奏し、どれも最高の夜だったそうですが、まあ、それをマネたのかヒントにしたのかパクッたのか、そもそもブレットのすることにボノが聞き耳を立てるようなこともしないと思うので、単純にカブったというのが真相かもしれません。マイラバも似たようなことをしていたけど、まあ...。

そんなわけで、13年ぶりのU2来日は、U2最新型ではなくU2の回顧展祭りになりそう。嬉しいやら寂しいやら、なんか複雑な気持ちです。

The Prodigyのキース・フリント訃報について、今さら少し語ってみた

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今年、2019年の上半期を振り返ると、個人的に最大のニュースだったのは、3月11日に急逝したザ・プロディジーのキース・フリントに尽きます。享年49才。死因は自殺と断定されていますが、一部では事故死ではないかとも報じられていたりします。その辺の曖昧さは、1998年に急逝したX JAPANのhideに似たものを感じたりもします。

いずれにしても2018年の11月に前作より3年ぶりになる通算7作目のアルバム「No Tourists」を発売し、イギリスのオフィシャル・チャートでは当たり前のように1位を獲得、アルバムタイトルを冠したワールドツアーも同時にスタートし連日のようにあちこちのアリーナやスタジアムを沸かしていました。そのツアーがどれだけの熱量で迎えられていたかは、次の「We Live Forever」のツアーPVを見れば一目瞭然でしょう!

そのツアーの舞台がヨーロッパからオーストラリアに移り、5月からはアメリカツアーが始まろうとしていた矢先の出来事だっただけに、しかも今年のメモリアル開催となるフジロックサマソニには絶対に来るだろうと思っていた矢先なだけに(ケミブラが登場するフジロックプロディジーも参戦していたら、こんな伝説は二度となかったはずなのに...)、突如として届けられた訃報は世界中のロックファンやレイバーたちを悲しみのどん底に落としました。

プロディジーの中でのキースの役割は、初めてリードシンガーとなった大名曲「Firestarter」を聴けばわかるように、こいつフロントマンなの?と勘違いしてもおかしくないほどの中心的な存在でした。それまではリロイと一緒にステージの上でピョコピョコ跳ねてただけのヤク中なボクちゃんが、ホントにマジで「Firestarter」の1曲だけで文字通りに化けたのです。そこからの「Breathe」や「The Fat of the Land」の快進撃は僕が語るまでもないでしょう。

5作目のアルバム「Invaders Must Die」で復活を遂げ、自主レーベルTake Me to the Hospitalを立ち上げたことで、プロディジーの頭脳であるリアムの創作力は留まるところをしらないものになり、その作品は強靭なビートを叩きつけるだけになりました。それを一辺倒と切り捨てるのは簡単です(6作目「The Day Is My Enemy」や最新作「No Tourists」がどれも似たような曲にしか聞こえない事実は僕も認めます)。しかし、得てして体力が落ち、尖っていたものが丸くなっていくと「ロックなんてダサいよ、これからはEDMさ!」と簡単に鞍替えするクソ共が多い中で、プロディジーだけは「EDMなんか小僧が便所で聞く音楽だ。現実逃避したいなら俺らが本物のロックを聞かせてやる!」といつまでも変わらずに豪語していたのです。このスタンスを貫き通すハートの強さは、そんじゃそこらのアーティストには真似できない、たぶん世界のてっぺんを見たものだけが持ち得るものじゃないだろうかと思うのです。変わろうが変わらなかろうが、過去を振り返るのではなく、あくまでも最新型であることにこだわり続ける。それがプロディジーであり、世界で唯一無二の存在として名を轟かせ続けている所以だったのです。

そんな鉄壁の強さを誇るプロディジーが、キースの(あえて言わせてもらうと)不慮の事故により立ち止まってしまったことは、一音楽ファンとして、とても悲しい出来事です。それでもリアム・ハウレットという稀代の天才は、たぶん遠くない未来に、僕らの前に再びその雄姿を見せてくれるのではないかと思います。こんなクソみたいに悲しい世界を変えられるのは、神でもSNSでもAIでもない、不屈のロック魂だけなんだ。そんな風に僕たちの前に姿を現してくれるはずだと信じています。キースもそれを望んでいるのではないでしょうか。悲しみに屈するな、と。

tricotの佳作EP「リピート」から、今さらメジャーデビューをする意味をちょっとだけ考えてみた

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去年の5月に5thシングル「potage」をリリース。先行PV公開されていた「ブームに乗って」の路線を踏襲するように、気怠げでありながらチルアウト的でエモな感じの最新tricotスタイルを見せつけ、若い頃のようなガムシャラなロックはもうやりませんよ~だと、イッキュウさんがアッカンベーをしているような、いいじゃんいいじゃん、相変わらずパイセンは変態だし、ヒロヒロのベースはブイブイいうとるし、雄介くんの技巧的な細かなリズムも最高と思っていたのです。

からの、イッキュウさんの課外活動ジェニーハイを経て、なんじゃこりゃ、まんまU2の「Discoteque」のPVか?と思しき「大発明」のPVが公開され、往年のtricot節が炸裂。

今のやるせない自分から脱却するため "幸せを真空パックする大発明" を求めたこの楽曲。パイセンのカッティングに寝そべってベロチューするように雄介くんがスカ的なリズムを刻み、大発明失敗の大爆発がサビで暴発。で、3rd EP「リピート」の発売となったわけです。

なんか、随分と積極的に活動してますなぁと思っていたら、今年の春、いきなりtricotがエイベックス内にプライベートレーベルを設立し、活動9年目にしてメジャーデビューをすることを発表。マジか!令和ブームに乗っかって新時代の到来。まさか絵音くん、イッキュウさんに変なこと吹き込んだわけじゃないよな?

で、ドロップされたのが「BUTTER」のPV。これが今までのtricotを総括するような作品に仕上がっておりまして、はあ、総括かぁ...、と意気消沈してしまったのです。

「爆裂パニエさん」のPVをベースにしている辺り、これでtricotは一周したと言いたいのかもしれないし(それが最新EP「リピート」のタイトルの真意かもしれない)、そこから新たな旅立ちがこの先に待っているのだと思いたいのだけど、いかんせん、アーティストという人たちは過去を振り返り始めるとロクなことになりません。前を向いて先へ先へと進む姿が頼もしいのであって、後ろを見始めたらそこにずっと立ち止まり続けなければいけないのです。その先はないのです。

今年の秋に発表されるニューアルバムがどんな姿になるのかは予想もつかないので、僕の意気消沈が杞憂であればいいのですが、なんか、ちょいとひっかかります。

現実突破を爆音に乗せて突き進んできた3人が、ドラマーの不在で紆余曲折し、最終的に雄介くんと出会い、自由自在にロックでジャジーでメロウな展開を見せた大傑作アルバム「3」。その先に進むのはメジャーという大舞台で戦うこと。今まで裏街道を練り歩いてきた3人が、メインストリートでオラ!オラ!と大股でそこらのへなちょこを蹴散らしていく、そんな未来が待っているのなら大喝采なのですが...。

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パイセン、「どこ見てんじゃい、コラぁ!」と冷や水をぶっかけてきてますが、この決意表明が本気ならば、この秋以降、ぬるくなってネチョネチョになった音楽業界にケルヒャーばりの大噴射がtricotから発射されるのかもしれません。それを期待したい。

SEKAI NO OWARIの最新ツアーで明かされた「EYE」と「LIP」の真意

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今年の2月末に発売されたアルバムを今さらレビューするのもどうかと思いますが、ただ、セカオワの最新ライブツアー「The Colors」のセットリストや演出を見る限り、これはどうにもこうにも「EYE」というアルバムが今のセカオワの立ち位置を明確に表しているのではないかと思い、ちょいと語ってみようかと思います。

そもそも、僕個人の意見としては「LIP」に詰め込まれた "いい子ちゃん" なセカオワはあまり好きではありません。アルバムが2枚同時に発売され、大方の予想通りに「LIP」がチャート1位を獲得したのも、僕個人の意見としては気に入らないのです。何が気に入らないか?一言で言うなら "世間に迎合した" アルバムだからです。その迎合したアルバムを世間が予想通りに迎え入れた。こんな出来レースセカオワには求めていないのです。

2月に発売された当時、「EYE」はダークサイド、「LIP」はポップスという括りで紹介されていました。エセジブリの主題歌「RAIN」、オリンピックテーマ曲「サザンカ」、RPGの第二章「Hey Ho」、ある意味でのクリスマスソング「イルミネーション」が収録されているとなれば、世間の人たちはヒット曲の多いポップな「LIP」を選ぶのは当然だと思います。

ライブツアーも「炎と森のカーニバル」から「TOKYO FANTASY」、そして、無謀とも言われた日産スタジアムの「Twilight City」までは良かったのですが、ドームツアー「タルカス」でファンタジーを物語に置き換えた辺りからセカオワのいい子ちゃんぶりが始まり、その余波が「INSOMNIA TRAIN」に続いていきました。ていうか、セカオワの最大の売りは "現実というファンタジー" が売りだったわけで、まんまな "ファンタジー" はただの幻想でしかなく、セカオワである意味がないのです。さらに、そのまんまな "ファンタジー" をまとめた「LIP」も、セカオワが...、というよりもFukaseが歌う意味がないのです。なので、「RAIN」とか「イルミネーション」とか、ホント、好きになれないんですよね。Fukase、いつから猫かぶるようになったんだ?と。

「LIP」に収録されている楽曲群を見ると、ほとんどがNakajin作曲が多く、ポツリとSaoriちゃん作曲が混じってきます。Fukase単独の作曲は「蜜の月」のみです。この辺りも、ゆずに例えるなら、メジャーデビューして1~2年後、急激にスランプに陥った北川を支えるように、岩沢くんの代表曲とも言える「飛べない鳥」や「3カウント」がシングルとして発表され、「アゲイン2」でやっと北川がフッきれたみたいな、そんな印象に似ています。

「LIP」13曲中3曲が天下の小林武史のアレンジ。アルバム全体の約4分の1がコバタケ印というところも、僕の気に入らないところでもあります。そこらのとっちゃん坊やだったミスチルを稀代のカリスマまで研ぎ澄ました手腕は見事でしたが、セカオワで言うと、エキセントリックで繊細なFukaseのキャラを、ただただ、そこらのとっちゃん坊やにしただけです。Fukaseの優男みたいなわざとらしい笑顔は見れたもんじゃありません。まるで『時計じかけのオレンジ』の去勢されたアレックス、そのものです。

その反面、「EYE」の楽曲群を見るとほぼFukaseオンリーになります。Fukaseが抱いている世界観(もしくは人生観)をNakajinSaoriちゃんが支えている。そんな風に見えます。ていうかさ、それが本来のセカオワだったんじゃない?と言いたいわけです。わかります?だから、最新のアー写はこうなるんです。

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Fukaseは尖ってなきゃいけないんです。Fukaseは戦い続けなければいけないのです。Fukaseはエキセントリックでなくてはいけないし、傷つきやすいからこそ相手に攻撃しなければいけないのです。噛みつかなきゃいけないのです。誰かを喰いものにしなきゃいけないのです。

 

セカオワ、約4年ぶりのオリジナル・アルバムの発売がアナウンスされ、真っ先にキックオフされたのは「スターゲイザー」のPVでした。高揚するメロディーもなければ、不埒な言葉の羅列をただただ語り倒し、欅坂の平手ちゃんがノーヘルでバイクをかっ飛ばす。コンプライアンス?そんなもの知らねえよ。闇営業?上等じゃねえか。世間に唾を吐くそんなPVを真っ先に公開したのが、今のセカオワの全てです。

「LOVE SONG」のPV公開になると、さらにブラック・セカオワが全開になり、「Food」になるともうフルスロットルです。毒も喰らわば皿まで、美味いもマズイも関係ない、目の前にあるものをあるだけ食い散らかしてやるぜ。そんなFukaseの決意表明のようにも見えます。それは北川が「超特急」で開き直った先に「ストーリー」があったように、ミスチル桜井氏が紆余曲折の挙句「youthful days」で暗いトンネルをやっと抜けきったように、この先のセカオワFukaseにも今以上の名曲が誕生する予感を与えてくれるのです。

そんな現在のセカオワを堪能できるのが最新ツアー「The Colors」です。ツアータイトルが発表された時は「イルミネーション」を主軸にしたステージングなのかなぁ?と勘繰ったのですが、まあ、いい子ちゃんは吹っ飛びました。最高です。

で、今月の幕張メッセ2DAYS、チケット余ってまっせぇ!今までのセカオワライブのチケット争奪戦を考えたら、マジでありえない現象が起き始めています。そうかそうか、世間はこういうセカオワを求めてないのね。よぉく、わかった。ていうか、世間はそもそもセカオワに何を求めていたの?ジブリ的なファンタジーだとしたら笑っちゃうよ。Fukaseが語るファンタジーというのは、僕たちが生きているこのとてつもなく醜悪な "現実" のこと。この "現実" を直視するのが「EYE」というアルバムなんです。口先だけの「LIP」に惑わされているようじゃ、世間の喰いものにされて終わってしまいまっせ!喰われるんじゃない。食い散らかしてやるんだ。この際だ、たらふく食い散らかして、全部、腹に収めてやろうぜ。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第13週 何をするにも、これぐらいやれ。これぐらい...一生懸命頑張れ!

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まさか雪次郎くんに泣かされる日がくるとは思いませんでした...。

 

駆け足で今週を振り返ってみると、

月曜日:雪次郎、突如、川村屋を辞める!

火曜日:雪次郎、押入に隠れる!

水曜日:とよばあさん、魂の叫び!

木曜日:雪之助さん、静かに親心を語る

金曜日:バタークリームのロールケーキ

土曜日:雪月ver.のロールケーキ

と、こんな感じで雪次郎ウィークだったわけですが、

目覚めてしまった劇世界への憧れと、

菓子職人になるという使命に揺れ動き、

へなちょこなりにもがいている姿に涙、涙、涙でした。

雪次郎、がんばれ!

そして、いつでも帰ってこいと懐の深さを見せた小畑家。

その優しさと雪次郎への想いにまた涙、涙でした。

 

そんな雪次郎くんの姿を見てふと思ったのは、

昭和33年、1958年、今から60年も前の世界は、

今ほど自由な世界じゃなかったのかなぁ...と。

農家の息子は農家になり、

商家の息子は商家を受け継ぐのが当たり前で、

そこになんの疑問を抱かなかった時代。

ある人はそれを "伝統" と呼ぶし、

ある人はそれを "束縛" と呼び、

ある人はそれを "血筋" と呼びます。

どれが正解でも、どれが不正解でもない。

そんな時代の空気に反旗を翻す決意がいかほどなのか、

自由に生きてきた咲太郎にはわからないだろうなぁ...と。

 

雪次郎の乱と並行して、なっちゃんの身辺もザワザワでした。

駆け足で振り返ってみると、

月曜日:坂場はやなやつ!やなやつ!やなやつ!

火曜日:はあ...牛若丸と馬の動画が描けないよぉ!

水曜日:うわぁぁぁ!階段から落ちるぅぅぅ!

木曜日:鈍感なっちゃん、馬の動画がひらめく!

金曜日:雪次郎くん、おめでとう!

土曜日:なぬっ、天陽くんが結婚?!モモッチ~!

えっと...。

...。

とりあえず『わんぱく牛若丸』さらっと完成。

ルフィが「うりゃ~!」って叫んで終わり...。

パズーが「いいぞ!いいぞ!」って喜んで終わり...。

マジか...。

 

常盤御前と牛若丸の刹那系とか、

弁慶と牛若丸の師弟関係とか、

たくましくなっていく牛若丸の成長とか、

ドラマの本筋と並行して描かれるのかと思っていたら、

まあ、びっくりの打ち上げパーティー

モモッチ、やっぱりセンターか...。

ふむふむ...。

...。

いやいや、そういうことじゃない!

なんなん?

誰がアニメに勇気づけられたの?

大ヒット?

うぉぉぉぉぉ!

しかも、あっという間に一年過ぎたよ!

次回作はポスターだけで終わりだよ。

タイトルもわからないよ。

マコさんは出世したみたいだけど...。

なっちゃんはどっちだったの?

下山班だったん?マコさん班だったん?

そこに葛藤はなかったの?

マコさんイビリはなかったの?

うぉぉぉぉぉ!

マジか...。

電話がつながりました!とか、なんなん...(泣)

おんじ、嬉しそうだし...。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第12週 頂きます。

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千遥ちゃん問題から山形沖地震、カチンコ坂場くん、そして雪次郎の乱で終わった今週。まずはなっちゃんの今までの軌跡を見てみたいと思います。

 

【ステージ0】

太平洋戦争の泥沼化により父親が戦地へ。東京大空襲により母親が死去。命からがらで逃げ切れたのは信さんが助けてくれたから。兄妹だけが焼け野原に取り残され孤児となる。

なっちゃんの物語はこの1945年(昭和20年)という、日本の一大転機になる年からスタートします。戦時中の恐怖、戦後の極貧など、非戦争体験世代のさらに下の世代である僕は、本や映画やテレビでしかそれを知ることができませんが、その世界が想像を絶する過酷なものであったことは容易に想像ができます。なので、そんな壮絶な世界を経験した現在の70代から80代の方々が、とにかく元気でたくましくてあっけらかんとしているのは本当にスゴイなぁと思うのです。そして、そんな極限の世界を経験した子供たちを勇気づけたのがアニメーションであり、それが『なつぞら』という物語の一大テーマとなります。このステージ0がなっちゃんのゼロ地点、スタート地点です。

 

【ステージ1】

孤児院から柴田家に引き取られたなっちゃんは北海道へ。ゼロから酪農家へと開拓した泰樹さんと関わることで、働くことの意義、信念を貫き通す強さを教わります。さらに富士子さん、剛男さん、夕見子ちゃんに照男兄ちゃん、明美ちゃんが "家族の尊さ" をなっちゃんに与えます。

まずは「焼け野原」と「北海道の大自然」の対比、このコントラストが『なつぞら -北海道・十勝編-』の最大の魅力だと言えます。東京編に移行してからの違和感は、この『アルプスの少女 ハイジ』でも描かれていた "自然礼賛" 的な側面が消えてしまったことが一つの要因ではないかとも思います。

さらには柴田のおんじ、泰樹さんの存在。一本、筋の通った "サムライ" 的なおんじが、生きる道を見失ったなっちゃんの未来を照らす重要な精神的支柱でした。そして、富士子さん。疑似的であってもなっちゃんに母親という存在ができたことは、空襲で失った(しかも目の当たりにしてしまった)母親の死という傷を癒す、おんじと同等、もしくはそれ以上の存在です。そこに歴代朝ドラヒロインを配していることに、このドラマの思惑が如実に表れています。

ゼロ地点から "大自然"、"家族"、"生きる" ことをなっちゃんは受動的に学び、ワンステージ上に引き上げられたのです。

 

【ステージ2】

自然と共に生きることを選び、絵を描く楽しさ、もしくは絵で表現をすることで魂を解放することを教えてくれた天陽くん。芝居に打ち込み、絵とは違う方法で "魂" の表現方法を教えてくれた雪次郎くん。この2人の青年に、なっちゃんは "表現者" としての生き方を与えられます。

極限の世界を経験した子供たちに夢や希望を与えたアニメーションの物語を描くため、なっちゃんが次に引き上げられたステージが "表現" という課題でした。肉親のいない寂しさ、離れ離れの兄妹、そんな心の痛みや精神的な膿を洗い流す方法が "表現者" になることであり、それは自然と共生するおんじの生き方とは対照的でした。そのジレンマの解消が仲さんの存在であり、東京で好き放題に生きている咲太郎の存在でした。そして、北海道から東京へ移行する橋渡し的な存在になったのが川村屋の天然マダム。ここでも歴代朝ドラヒロインが、なっちゃんのステージアップを見守る存在として登場しているのです。

 

【ステージ3】

アニメーターになるという目標を掲げ上京したなっちゃん。そんななっちゃんの夢を支えるのが、伝説の劇場と呼ばれた「ムーランルージュ新宿座」の人気ダンサーだった亜矢美さん。そして、なっちゃんの夢の前に立ちはだかるのが、先輩アニメーターのマコさんでした。亜矢美さんに背中を後押しされて戦地に赴き、マコさんに出た杭を上からガンガン叩かれ、また亜矢美さんに背中を押されて戦地に赴き、マコさんにまたガンガン叩かれ、亜矢美さんに背中を押され、マコさんに叩かれ...。そうして、なっちゃんはアニメーターになりました。

こうして見てくると、各ステージに歴代朝ドラヒロインが配置されていて、なっちゃんのステージアップの手助けをしています。この構造は、なかなか贅沢でスゴいことだと思います。そして、いろんな物語のピークが目標の達成、ある一定の成功を収める地点になることと同じで、なっちゃんがアニメーターになった時点で、一つのステージが完結しました。

 

ここで原点回帰として出てきたのが千遥ちゃんの挿話です。戦時中、戦後という極限の世界を今一度確認するため、僕らの前に提示されたのは、あまりにも悲しい物語でした。ただ、ドラマのベクトルは「子供たちを勇気づけたアニメーション」という図太いテーマで突き進んでいます。そこに一縷の希望を見出さずにはいられないのです。

さらに重要なのが、ステージを駆け上がってきたなっちゃんが、ここで一旦振り返り、自分がいろんな人たちの手助けの上にいたんだということに気づいたこと。これはめちゃくちゃ重要です。

東京編になってからのなっちゃんはとにかくガムシャラで、ながら食い、出しっ放しと、その北海道編でのお行儀の良さが嘘のような摸倣さが目につきました。それはひとえに、夢に向かって突き進んでいたからと言えそうなのですが、それを別変換すると自己中心的になってしまっていたとも言えます。そんななっちゃんが、下山さんの女の子を助けた挿話に希望を見出し、そして、亜矢美さんの優しさに触れた時、おっきなおにぎりを前に「頂きます」と感謝を表したこと。この「頂きます」というセリフが、とにかく素晴らしすぎます。

今週の山形沖地震の発生で東日本大震災を思い出した人が多かったのではないかと思います。中には阪神・淡路大震災新潟県中越地震長野県北部地震熊本地震北海道胆振東部地震など、挙げていけば枚挙に暇がないほどですが...。思うのは、僕らはたびたび「頂きます」と言える環境を当たり前のことと感じてしまうことです。

3.11の時、コンビニは空っぽになり、ガソリンスタンドには長蛇の列が連なり、電気の無駄遣いは非国民ばりの空気がありました。そんなこともとうに忘れて、やれクリスマスケーキだ、やれ恵方巻きだ、やれインスタ映えだと、僕たちは反省も忘れて、食いきれないから捨てちまえとスマホを片手にヘラヘラ笑いながら生きています。

「頂きます」と言える感謝の気持ちを忘れないため、ある意味、奇跡的なタイミングで山形が揺れ、ドラマではなっちゃんが感謝の念を思い出しました。

ありがとう、なっちゃん

感謝の気持ちを忘れないようにしなきゃ。

(「なつぞら一週間」では、この辺りがバッサリとカットされていました...)

【連続テレビ小説「なつぞら」】第11週 私は鉛筆を手に、まだ何もない世界を耕しています。

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とうとうアニメーターになったなっちゃん

おめでとう、やったね!

 

そして、とうとう千遥ちゃんとの再会?

んん...、なんか一波乱ありそうですよ。

 

僕的には、今週、ハッとさせられたのが、

『人形の家』の蘭子さんに開眼させられた雪次郎くん。

そのセリフが以下。

咲太郎「長い間、女は家の中に閉じ込められてきた。それを解き放とうという運動なんだよ、この芝居は」

雪次郎「運動なんかじゃないです」

咲太郎「えっ?」

雪次郎「芝居は運動なんかじゃないです。演劇や文学の目的は問題の解決にあるんじゃないとイプセンは言っています。その目的は人間の描写です。人間を描き出すことです。イプセンは詩人や哲学者として、それを描いたんです。そして、それを見た観客も詩的や哲学的になることなんですよね」

 

おおっ!!!!!

雪次郎くん、すげぇ。

夕見子ちゃんが聞いたら、なんて言うだろうね。

 

週の初めには、熟練したトレース職人でも、

微かに線がズレることがあると富公...、

いや、富子さんも説明していましたが、

その微かな線のズレが動画に命を与えると言っていました。

 

人間を描く。

命を与える。

 

CGが当たり前になり、

人間らしい温かみが消えつつある昨今。

精度とかリアルさを追求するあまり、

ミクロとかマクロ単位の技術は向上しても、

心の琴線に触れることは少なくなりました。

それはやっぱり人間が描かれていないから。

そんな風に感じてしまいます。

 

そういう意味では、

このドラマはアニメ創成期を描きながら、

ルネサンスや人間賛歌をテーマにした

やはりすごいドラマなのかもしれません。

 

しかし、チビなっちゃん...、

ギガ姫になって高笑い...。

なんか淋しい...。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第10週 今は振り返りません。私はここで生きていきます。

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日本中が「天陽くん!天陽くん!」と沸きに沸いた週末。やっぱ、北海道の人たちが出てくるとテンション上がるよね。今まで頑なに "馬" だけを描いてきた天陽くんが世間に認められ、なんとなく馬以外のものを描きたくなった彼が心のままに決めたテーマがなっちゃん

マジか...。

 

ちょっとマジメに考えてしまうのですが、天陽くんが絵のテーマに "なっちゃん" を選んだということは、自分の中にある "イノセント" を暴き出そうと、純真無垢な部分を吐き出そうとしていたのではないかと、そう感じてしまうわけです。

捨てきれない想い。

恋焦がれる心。

つながりたい欲望。

そんな思春期の誰もが抱える感情をキャンバスにぶつけ、自分の中の "イノセント" を思いの丈いっぱいで吐き出したのではないかと。物語的には『白蛇姫』の主人公である白娘(パイニャン)の悲恋とシンクロさせることで、より奥行きのある構成になっているところも見逃せません。

しかし、天陽くんは気づきます。

違う。

ここから踏み出さなきゃいけない。

ここに留まっていてはいけない。

そもそも留まることができない。

実らせることができない...。

その一大決心が "イノセント" を真っ赤な絵の具で塗り潰すという行為。自分の中の "イノセント" を掻き切るという行為。それが "大人" になるという行為なのではないかと。その姿にめちゃめちゃ心が揺さぶられたのです。

 

その一方で "ラブレター熊" とか訳のわかんないプロポーズで、あっさり砂良さんと結ばれた照男兄ちゃん。いやぁ...、弥市郎さん、いいの?やっぱ撃ち殺しとくべきだったんじゃない?(笑)なにはともあれ、照男兄ちゃん、おめでとう!これで砂良さんも柴田家の人間かぁ...。おんじは砂良さんをどう迎え入れるんだろう?

 

仲ちゃん推しで次々とチャンスが巡ってくるなっちゃん。しかし、ことごとくそのチャンスをつかめない。それでも仲ちゃん推しは止まらない。

脚本の大森寿美男先生は、なっちゃんは受動的なキャラクターだと宣言しています。仲ちゃんに才能があると言われその気になり、着るモノは亜矢美さんの趣味に染まり、洞察力の鋭いマコさんには「あんた、田舎者であることを自慢してるでしょ?」とガサツなところを一刀両断されました。

オムレツを食べれば口にケチャップをつけ、試験が合格すれば下宿の2階の部屋で足をバタバタさせ、ながら食いでひたすら絵を描き続け、食べたものは片づけない。夕見子ちゃんの存在も、おんじの存在も大きかったのですが、北海道でのなっちゃんは、もう少しお行儀がよかったような気もします。それがフーテン咲太郎のそばに来た途端、かつての妹に戻ったというか、東京の忙しなさに染まったというか、ある意味ではそこが受動的なのかもしれません。

人間というのは不思議なもので、環境に慣れてしまう生き物です。大地震が起きて、発電所が壊れ、思うように電気が使えなくて、計画停電で不便な思いをしてから8年以上も経つと、今では電気なしでは使えないスマホSNSが世間に溢れかえっています。その有難みがすっかり鳴りを潜め、もはやクラウドとかネットというのは空気と同じぐらいの感覚でいます。キャッシュレスとか通販とか、とにかく当たり前のものとして存在しています。しかし、これは幻影です。次にまた何かしらの天変地異が起こり、電気が使えない、充電ができない、サーバーそのものがダウンしてしまうなど予測不能の事態が起きた時、僕のこんな駄文はもちろん、膨大な写真や動画は瞬く間に消えてしまいます。人の世とは儚いものです。

まあ、そんな起こるか起こらないかわからないものを考えても仕方がありませんが、とにかくマコさんのような自分の意思を貫く人間よりも、なっちゃんのような周りの環境に受動的な人の方が圧倒的に多いと思うのです。

元警察官の川島...、いや下山さんが語っていたように「アニメーション」という単語はラテン語の "魂" を意味するanima(アニマ)が語源になっています。命のない動かないもの、存在のないものに "魂" を吹き込む。それがなっちゃんの "挑戦" です。ネットやAIでも、そこに "魂" のあるものは人の心を動かします。絵画も彫刻も音楽も演劇も、全て無から生まれ、人の "魂" を震わせています。僕たちは、その感動を糧にして、今日を生きています。明日に思いを馳せます。何かを踏み出す一歩の勇気をもらいます。

 

フーテン咲太郎が持ち込んできた次の公演は『人形の家』だそうです。なっちゃんは「そんなにちっちゃいの?」と天然マダムみたいなことを言ってましたが、いやいや、雪次郎くんが飛び跳ねて喜んでいたように、フェミニズム運動の象徴のような作品を嬉々として語るあたり、さすが夕見子ちゃん好き好き雪次郎くんなところがあります。咲太郎的には、あの松井須磨子嬢のようなスターを輩出するぞ!ぐらいの気概しか持ち合わせていないかもしれませんが、そんなサイドストーリーにも製作者たちのこだわりを感じます。

女性解放運動、さらには美術大学も出ていない、絵の勉強も独学、そんななっちゃんが社会的な地位を確立していく。その姿には階級や年齢・性別などの自由を謳う物語として、封建的な社会から民主的な社会への動向も盛り込まれています。ただ、その象徴である亜矢美さんが視聴者にそんなに受け入れられず、逆に封建的なおんじが視聴者の絶大な支持を得ているのは、なんだかんだ言って、日本もまだまだ封建的な考え方から逸脱できていないのではないかとも思ってしまいます。

働き方改革で、とかく "こなすこと" に視点が集中しがちですが、合理的な生産性を語る前に、まずそれが "楽しい" ことなのかどうかが問題なのではないかと思います。もちろん、みんながみんな楽しく生きていければ、そんなに素晴らしい世界は他にないと思いますが...。労働者解放運動でみんな5時以降は自由に生きていいぞ!と言われると何をしたらいいかわからず途方に暮れてしまい、逆に封建的に上司や社長から、お前ら徹夜してでもこれだけやるんだ!やれ!やれ!と叱咤激励された方が働きやすいこともあるのではないかと。違いは、そこに "楽しさ" があるかないか。5時以降に何か "楽しい" ことがあれば、それはとても自由なことだし、愛のある尊敬すべき上司や社長の命令ならば、それに従い結果を出すことも、また "楽しい" ことなのです。

 

試験は不合格。

絵も下手。

基礎も知らない。

そんななっちゃんですが、実に "楽しく" 生きています。

僕たちもそれに便乗しちゃいましょう。

がんばろう、なっちゃん