that passion once again

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深読みインランド・エンパイア② Act

「The Return」を解読するための『インランド・エンパイア』解体シリーズ

第2回「自己投射に映るもの」

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前回では『インランド・エンパイア』という映画の大枠の話をしましたが、今回も構造の大枠の話になります。

内藤仙人さまは『インランド・エンパイア』について "テレビ" という媒体を挟んで "ダブル2本道" と解説していました。2本道というのは、ユング的に言うとペルソナ街道とシャドウ街道の2本道、仏教的に言うとあの世街道とこの世街道の2本道ということになります(合ってるのかな?)。それがダブルということは、ペルソナ街道の中にあの世街道とこの世街道があって、シャドウ街道の中にもあの世街道とこの世街道があると。それが高速道路みたいに地上にも地下にも幾重にも絡み合っている状態で、あっちこっちにジャンクションがあって、カーナビなしじゃ無理でしょ!わかったかい、チミは!って事だと思うのですが、まあ、普通になんのこっちゃという感じでもあります。

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このDNA螺旋のように入り乱れている構造を一つ一つ解体していってもなんの解決にもなりません。そもそもヒトゲノムをプログラミングに置き換えて0か1の組み合わせとして考えると、解体したって "ある" か "ない" かの区別にしかならないのです。だったら、ツイスト・ドーナツのようにまるっと美味しく食べてしまった方がよっぽど簡単です。

そこで『インランド・エンパイア』です。この映画にもまんべんなくパウダーシュガーがまぶされています。そのパウダーシュガーとは何か?というと "映写機" です。

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おわかりでしょうか?初っ端にブウンと映写機が回り始めて映画が始まると、撮影を重ねていき、最終的にこの物語は「あなたの内面を撮影したものなのだよ」と劇場の映写機が映し出されて映画は終わり、内なる宮殿のエンドクレジットが始まるのです。全てはスクリーンの中の話でした、めでたしめでたし。こんな感じです。

では、そのスクリーンに映し出されていたものは何か?というと、端的に語ってしまえば、ニッキー・グレイスという魂の自己投射ということになるのです。類語で言えば自己投影。僕たちがジャッキー・チェンの映画を観て、おおっ!オレもビルの五階からオーニング伝いに飛び降りることができるんじゃないかっ!と錯覚してしまうのが自己投影。トム・クルーズの映画を観て、おおっ!オレもMA-1を羽織ってバイクをかっ飛ばせば美人教官とチョメチョメできんじゃねぇかっ!と妄想に走るのが自己投射です。例えが80年代映画で申し訳ありませんが、ニュアンスは伝わるでしょうか。自己投影してしまった人は大怪我をした挙句、警察に事情聴取を受けるハメになり、最終的に器物破損でお店から損害賠償を受けることになります。自己投射してしまった人は己の自我とは別の人格、別の容姿を手に入れようと行動を繰り返し、最終的に自分はトム・クルーズでもマーヴェリックでもないと気がつくまで、妄想の世界で生き続けることになります。そんな精神の遍歴を映画にしてしまったのが『インランド・エンパイア』であると。うん、妄想が激しいというヤツですな。

なので、劇中劇の中に劇中劇があるという、なんともややこしい構図になっていて、マーヴェリックがテレビを観ていると、その中ではアイスマンバットマンになっていて、アイスマンバットマンはなぜかトム・クルーズの奥さんニコール・キッドマンと仲が良くて、それを観ていたマーヴェリックは嫉妬してバーに走ったら、いつのまにかストックカーレースに出場していて大事故を起こしてしまい、気がついたら目の前にニコール・キッドマンがいましたみたいな、そして、それを体験しているのは先ほどのMA-1を羽織ってバイクにまたがったオレ!みたいな、こんな感じなのです。パロディとかツイスト・ストーリーとかそんなまともな話じゃなくて、完全に連想ゲームです。

「ツイン・ピークス The Return 考察 第14章 根幹」の中で「感覚映像-自由連想仮説」の話をチョロッとしているのですが『The Return』も『インランド・エンパイア』も、このリンチ監督の "自由連想" を映像化したものであり、物語の構図は両作品とも似通っているのです。とは言いつつ、片方はマーク・フロストという稀代のエンターテナーが携わっているので『インランド・エンパイア』に比べると数百倍わかりやすくなっています。なので『The Return』の17章では、ぼんやりクーパーが現れて「僕らは夢の中で生きている」なんていうネタバラシをしてしまうハメになっています。ナイドの顔がパキパキッと割れて中からダイアンが出てくることも然りです。

 

さて、2000文字が近づいたところで、次回は劇中劇の舞台について語っていきまっせ、姐さん。