that passion once again

日々の気づき。ディスク・レビューや映画・読書レビューなどなど。スローペースで更新。

拝啓、徳永英明さま

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本日、WOWOWで放送された兄やんの最新ライブを観て思いました。若かったあの頃のような、とてつもない熱量を含んだライブ体験って、もう、これから二度と経験することはできないんだろうなぁ...と。なんて言うんでしょ、下品な例えですが、半立ちでイッちまったような、男としてなかなかに中途半端な感じがしまして、なんかヒリヒリするものがないと言うか、うぉぉりゃぁぁぁ!みたいな咆哮がないと言うか、まあ、時も30数年経つとこうなるのも仕方ないと言えば仕方ないんでしょうし、こんなこと語ってる時点で熱い徳永ファンからは怒られそうな気もするのですが...。わかってます。わかってますよ。ツアー中に緊急搬送されて公演が延期になったことも、体調を鑑みながらステージを進めていることも、十分にわかってます。ステージに立って歌ってくれることだけでも感謝するべきだということも。でも、なんです。でもね。

思えば今から30年以上前ですか。「夜のヒットスタジオ」で兄やんが涙を流しながら「最後の言い訳」を熱唱しているのを観てからずっとファンです。…、…、…。ずっと?...、…、…。そうですね、訂正いたします。時たまファンです。ただ、その "時たま" がなかなかに僕の人生の岐路でいろいろと支えてくれているのです。悩んでいる時、迷った時、弱っている時、その時々に、どこからともなく兄やんの声が響いてきて、そんなもんじゃないだろ!っと叱咤激励してくれるのです。うぉぉりゃぁぁぁ!という咆哮を上げさせてくれるのです。今日だって、そうです。テレビをつけたら、偶然に兄やんのライブですよ。まるで導かれているようでもあります。

去年の7月にセルフカヴァー・ベストを発売しているのですが、その歌声も、うぉぉりゃぁぁぁ!という咆哮に満ちたアルバムになっておりました。60が見えてきたおっさんが作るアルバムじゃないんじゃないかなぁと思うんですが、amazonレビューなどを見ると、どうも煮え切らないアルバムというのが一般的な受けのようです。その煮え切らなさは、今日のライブを見た僕の感想とも合致するのですが、アルバムの中ではそうじゃないと思うんですね。というか、アルバムで描かれていた世界観をライブで表現するためには、あまりにも体力的な問題があったんじゃないかと勘繰ってしまうのです。

まあ、僕も7月に発売された時点では、兄やん、またカヴァーなん?前に出してるやん。ていうか、カバーじゃなくて "カヴァー" って言ってる時点で、ラジオじゃなくて "レディオ" みたいな感じってことでしょ。相変わらず、お洒落さんなんやからぁ...と、完全スルーでいたのです。ですが、ここんところのハードワークで疲れてきたんでしょうね。兄やん、また助けてよって感じに...。リスナーなんて気ままで気まぐれなものです。

でね。そもそもですよ。そもそも、CDというものが売れなくなって、とりあえずライブに来てちょうだい!と業界全体が会場確保に血眼になっている時代に、毎年毎年必ず1枚はCDアルバムを発売しているのが兄やんこと徳永英明なんです。CDを発売して、それに付随したコンサートを開いて、またCDを出して、またコンサートを開いて、そのルーティンの繰り返し。それを35年以上続けているんです。スゴくないですか?

てなわけで、ズラズラズラーッと兄やんデイスコグラフィーを並べていくと、こんなになりまっせ、姐さん。

f:id:wisteria-valley:20181128003417j:plain 1stアルバム「Girl」(1986.01.21)

f:id:wisteria-valley:20181128003606j:plain 2ndアルバム「radio」(1986.08.21)

f:id:wisteria-valley:20181128003733j:plain 3rdアルバム「BIRDS」(1987.05.21)

f:id:wisteria-valley:20181128003925j:plain 1stベスト「INTRO.」(1987.12.05)

f:id:wisteria-valley:20181128004048j:plain 4thアルバム「DEAR」(1988.04.21)

f:id:wisteria-valley:20181128004203j:plain 5thアルバム「REALIZE」(1989.05.21)

f:id:wisteria-valley:20181128004320j:plain 1stライブAL「Live」(1990.07.01)

f:id:wisteria-valley:20181128004506j:plain 6thアルバム「JUSTICE」(1990.10.09)

f:id:wisteria-valley:20181128004611j:plain 7thアルバム「Revolution」(1991.10.05)

f:id:wisteria-valley:20181128004724j:plain 2ndベスト「INTRO.Ⅱ」(1992.12.04)

f:id:wisteria-valley:20181128004839j:plain 8thアルバム「Nostalgia」(1993.12.10)

f:id:wisteria-valley:20181128005003j:plain 2ndライブAL「Live 1994」(1994.09.14)

f:id:wisteria-valley:20181128005135j:plain 9thアルバム「太陽の少年」(1995.12.08)

f:id:wisteria-valley:20181128005306j:plain 10thアルバム「bless」(1997.02.06)

f:id:wisteria-valley:20181128005413j:plain 3rdベスト「Ballade of Ballade」(1997.11.01)

f:id:wisteria-valley:20181128005812j:plain 4thベスト「シングルコレクション (1986~1991)」(1998.11.21)

f:id:wisteria-valley:20181128005931j:plain 5thベスト「シングルコレクション (1992~1997)」(1998.11.21)

f:id:wisteria-valley:20181128010042j:plain 11thアルバム「honesto」(1999.06.02)

f:id:wisteria-valley:20181128010158j:plain 12thアルバム「remind」(2000.05.24)

f:id:wisteria-valley:20181128010302j:plain 6thベスト「INTRO.Ⅲ」(2001.02.28)

f:id:wisteria-valley:20181128010437j:plain 13thアルバム「愛をください」(2003.02.27)

f:id:wisteria-valley:20181128010533j:plain 7thベスト「カガヤキナガラ」(2003.10.01)

f:id:wisteria-valley:20181128010649j:plain 14thアルバム「MY LIFE」(2004.09.29)

f:id:wisteria-valley:20181128010749j:plain 1stカヴァーAL「VOCALIST」(2005.09.14)

f:id:wisteria-valley:20181128010854j:plain 8thベスト「BEAUTIFUL BALLADE」(2006.02.22)

f:id:wisteria-valley:20181128011054j:plain 2ndカヴァーAL「VOCALIST 2」(2006.08.30)

f:id:wisteria-valley:20181128011158j:plain 3rdカヴァーAL「VOCALIST 3」(2007.08.15)

f:id:wisteria-valley:20181128011307j:plain 9thベスト「SINGLES BEST」(2008.08.13)

f:id:wisteria-valley:20181128011414j:plain 10thベスト「SINGLES B-side BEST」(2008.08.13)

f:id:wisteria-valley:20181128011516j:plain 15thアルバム「WE ALL」(2009.05.06)

f:id:wisteria-valley:20181128011848j:plain 4thカヴァーAL「VOCALIST 4」(2010.04.20)

f:id:wisteria-valley:20181128012007j:plain 12thベスト「VOCALIST & BALLADE BEST」(2011.04.27)

f:id:wisteria-valley:20181128012124j:plain 5thカヴァーAL 「VOCALIST VINTAGE」(2012.05.30)

f:id:wisteria-valley:20181128012230j:plain 16thアルバム「STATEMENT」(2013.07.17)

f:id:wisteria-valley:20181128012339j:plain 3rdライブAL「STATEMENT TOUR FINAL」(2014.09.03)

f:id:wisteria-valley:20181128012522j:plain 6thカヴァーAL「VOCALIST 6」(2015.01.21)

f:id:wisteria-valley:20181128012625j:plain 13thベスト「ALL TIME BEST Presence」(2016.04.13)

f:id:wisteria-valley:20181128012724j:plain 14thベスト「ALL TIME BEST VOCALIST」(2016.08.17)

f:id:wisteria-valley:20181128012825j:plain 17thアルバム「BATON」(2017.07.19)

f:id:wisteria-valley:20181128012917j:plain 15thベスト「永遠の果てに」(2018.07.04)

てな感じで並べた並べた、全部でぴったり40枚ですよ。ほぇぇぇぇ...。シングルまで入れたら100枚近くになってしまうんだから、まあ、どれだけ声を張って歌い続けているかが如実にわかるというものではないでしょうか。さらには、今年、セルフ・カヴァー第二弾が発売される予定なんですから、もう、売れる売れない関係ない、とにかく歌い続けることに意味があるのです。と、思いたい。

この中でアルバムが発売されなかったのは1996年と2002年の2つの年のみです。ただ、'96年は「ROUGH DIAMOND」と「SMILE」という2大シングルが発売された年でもあるので、記念すべき10枚目のオリジナル・アルバム「bless」の制作にいかに全身全霊で臨んでいた1年かがわかるとも言えます。レコード会社の移籍でちょいとゴタゴタしていた時期とも言えますが...。

2002年は "もやもや病" の治療に専念していた年で、ここまでの軌跡を俯瞰してみると復帰作である13thオリジナル・アルバム「愛をください」が、かなりのターニングポイントになる作品と位置づけることができます。アーティスト名を旧字体に変更したのもこの頃。楽曲制作がシンセサイザーから生バンドにシフトチェンジしたのもこの頃からです。で、徳永英明第二章として発売されたのが初のセルフカヴァーアルバム「カガヤキナガラ」。

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今から15年も前に発売されたこのセルフカヴァーアルバムですが、生ピアノとウッドベースが特徴的なジャジーでコンテンポラリーな楽曲群になっています。よく言えば大人なアルバム、悪く言うと変化に乏しい一辺倒なアルバムです。瀬尾一三先生や国吉良一先生の打込み主体の大層なアレンジに慣れ親しんでいる徳永ファンからすると、3ピースバンドのシンプルな演奏に、ちょっと物足りなさを感じてしまうかもしれません。それでも「VOCALIST」以前のアルバムとあって、兄やんの張り上げる声もまだまだ堪能できる頃でもあります。しかし、例えば「JUSTICE」であったり、'92年頃の倒れてまで叫び続けている「壊れかけのRadio」、精神の限界まで追い込んだ「魂の願い」、第一期の集大成的なバラード「Positions of life」のライブを経験してしまうと、どこか寸止めのような、どうにもイカせてもらえないもどかしさはあります。

てなわけで、とりあえずドバドバとイキまくっている兄やんのライブ2連発です!

どうですか。これぞ魂の叫び、プライマル・スクリームってやつじゃないでしょうか。で、「VOCALIST」シリーズで歌い手としての地位を確立し、それなりに安定した兄やんなんですが...。もうカヴァーはいいっしょ、ここらでもう一度シンガーソングライターとしてオリジナルを作るでぇ!なんでかって?シンガーソングライターだからに決まっとるやんけ!と、ここでこの「JUSTICE」期に今一度舞い戻ってみたのが前々作の「STATEMENT」でした。ただ、苦しいことを苦しいと闇雲に叫び続けていた若かりし頃とは違い、それなりに家族も地位も獲得した兄やんとしては、なかなか丸くなったものを尖らせることが難しかったようです。

その答えが前作の「BATON」でした。過去の自分へのバトン、明日の自分へのバトン、そして、次世代へのバトンをつないで行こう。その先に未来があるから、その先に希望があるから、その先に答えがあるから。

で、やっとこの記事の本題です。最新作「永遠の果てに~セルフカヴァー・ベストⅠ~」に辿り着いた兄やんです。「VOCALIST」で数々の女性歌手のバラードと対峙し、「STATEMENT」~「BATON」で稀代のメッセンジャーとして丸いものを丸いと歌ったことにより、ある意味、限界の先に行くのは自己解体しかないと悟ったようなのです。その片鱗は「STATEMENT」のライブで既に現れていました。それが、このアルバムにも収録されている「MYSELF~風になりたい~」です。今さら、時代が云々、世間が云々と朗々と歌い上げるのも大人げない、どちらかというと、あの頃の熱い気持ちをもう一度蘇らせるために、今何ができるのかを考えようじゃないか。時は過ぎた。過ぎたからこそ見える景色もあるだろう。その景色を前に、今だからこそ対峙できる情熱を蘇らせようじゃないかと。

公式の特設サイトではコラムニストである栗本斉氏の楽曲解説が掲載されています。

その真似っこで、僕もアルバム全楽曲の解説を今さらながらしてみようかなと思った次第なのです。随分と長い前置きでしたが...。てなわけで、純度100%、完全に独りよがりな "時たまファン" のアルバム解説が始まりまっせ。

 

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「永遠の果てに~セルフカヴァー・ベストⅠ~」全楽曲解説

 

1.永遠の果てに

オリジナルは1994年発売のシングル。「Nostalgia」という、とんでもなくディープな領域を潜り抜けた後、山田ひろし氏の詩世界との相乗効果で、一気に天上世界まで突き抜けた楽曲です。15年前のセルフカヴァー集にも収録されている楽曲ですが、その際はまるでジャズのスタンダードを歌い上げるかのように、ただただメロディーに身を委ねるに留まっていました。それが今回、アルバムタイトルにあるように、リード曲として選ばれたのは、坂本昌之氏と共に、もう一度、山田ひろし氏の詩世界を音像化しようという試みだったのではないかと思います。

世界が終わりを迎える時、キリストの再臨と共に天使がある書物を抱えてきます。その書物には人類全ての名前が記されており、名を呼ばれた者は再び蘇り、天に行くか、地に行くかの審判を下されます。この "最後の審判" を題材に、1994年頃に蔓延していた終末思想の先にまだ希望は残されている、僕らの存在は消えていくだけの儚いものではなく、その先まで続いていくんだという "祈り" の歌が「永遠の果てに」でした。

今回のセルフカヴァーでは、この詩世界をドラマチックに、かつ命の灯火をそっと包み込むようなアレンジとヴォーカリゼーションが施されています。ラストのパイプオルガンの音色が詩世界への敬意を端的に現わしています。

 

2.最後の言い訳

今から30年前、1988年に発売された徳永英明、通算6枚目のシングル。スマッシュヒットでブレイクを果たした「輝きながら…」が本人作曲の作品でなかったため、しばらく自身のブレイクスルーは「輝きながら…」ではなく「最後の言い訳」と言い続けていた曲でもあるので、ファンも思い入れの強い楽曲ではないかと思います。

"アイデンティティー・クライシス"、"自己喪失"、徳永英明というアーティストの本質は、ほぼ8割方がこの "喪失感" に依る所が大きいのではないかと僕は思っていて、変な話ですけど、兄やんは幸せになればなるほど作品を作る意味を失っていくアーティストだと思うのです。僕は幸せなんだぁ~と歌う「I LOVE YOU」がイマイチのれなくて、道を見失っちまったよぉ~と歌う「もう一度あの日のように」が胸に迫ってくるのも、そういうアーティスト体質だからではないかと。その本質が初めて世に出たのが、この「最後の言い訳」ではないかと。

15年前のセルフカヴァー集にも収録され、その際にも "大切なものが失われていく" という喪失感を、繊細なピアノの旋律と共に声を限りに表現していましたが、今回のセルフカヴァーでは、なんとピアノではなくギターをつま弾くという!長年歌い続けている楽曲ですが、このアレンジは新鮮すぎます。中盤から後半ではハモンドオルガンまで登場して、原曲の雰囲気も復活するのですが、なんて言うんでしょ、エルトン・ジョンの歌をジム・モリソンがバンドでアレンジしたとでも言いましょうか。今回のアルバム全体に言えることなのですが、なんか "ロック" なんですよね。

しかし、長年のファンとしては、やはりこの曲は声を限りに叫び倒す姿を拝みたい歌でもあります。そこにこそ存在価値がある歌だと思うのです。もちろん、いつまでもそう叫んでられないよ、去る者を追いかけないという選択肢もあるのさ、という解釈もわかりますけどね。

 

3.壊れかけのRadio

徳永英明の代表曲の一つ。初出は1990年。当時はラジオを "レディオ" と歌ったことにより全国民からおちょくられましたが、時が経てばそれも今では良き想い出です。先述した「最後の言い訳」同様、喪失感を歌った名曲であり、それまではアーティストでありながら、どこかトレンディー俳優的なヘラヘラしたアイドルじみていた兄やんが、この楽曲を境に、急に真顔化した楽曲でもあります。

'94年頃までは「最後の言い訳」同様、叫び倒す楽曲として、ライブでも見所の一つではありましたが、いつの頃からか、急にサビの語尾を下げた、どこか気怠さを漂わせた歌い方に変わり、中居くん曰く「なんでそんな歌い方するん?」という時期が続いていました。ライブに慣れているファンからするとそんなに違和感はないかと思いますが、一般的な耳で聞くと、なんだかCDで聞くのと違うなぁ...と。

それが2014年に放送されたTBS『音楽の日』で劇的に変化しました。山口百恵さんの超名曲「さよならの向う側」との相乗効果もあったと思いますが、この日に披露された「壊れかけのRadio」は何十年ぶりかの原曲通りの歌い方だったのです。その存在感たるや、他のアーティストの追随を許さない圧倒的なもので、中居くんも「すっげぇ...」とポツリとこぼすほどのパフォーマンスでした。

「カガヤキナガラ」に収録されていた同曲に比べても、今作は往年の徳永節が復活。まさに『音楽の日』で披露されていた歌い方で収録されています。"ギターを弾いていた..."と歌っている割には、原曲ではポロリンポロリンとあまりギターの音が聴こえてこないのですが、今作では冒頭からジャーンジャーン鳴っているのも印象的です。もう、なんで今さらロックなん?と思うのですが、それも次曲の「MYSELF~風になりたい~」があってのことでしょう。全ては「STEATMENT」ツアーでデッドラインを超えてしまったが故なのです。

 

4.MYSELF ~風になりたい~ (Tokunaga's Track Remix)

去年だか一昨年だかWOWOWで放送されていた「STEATMENT」ツアーのライブ映像、もしくはDVDなどの映像作品の最後に披露されていたのが、このニュー・ヴァージョンの「MYSELF」でした。最新ライブでもギターをギャンギャン鳴らしながら歌っていましたが、要はギターサウンド復権を機に、精神的な若返りを図ったのが今回のアルバムのテーマということになりそうなのです。

楽曲自体は'89年の作品。まだ「壊れかけのRadio」も「夢を信じて」も発売される以前の楽曲になりますが、僕にとっては、まあ、とにかく思い出深い楽曲です。歌詞は大津あきら氏によるものですが、"悲しみ そんな言葉に負けないで 僕も淋しさを超えて 風になりたい" という、思春期の真っ只中、完全に中二だった僕の心にズドンとその歌詞は響きまして、見えない明日を一点突破していく強烈なカンフル剤だったのです。とにかく5thアルバム「REALIZE」の中核にもなる徳永英明の超ターニングポイントになる楽曲でした。この曲がなければ「壊れかけのRadio」は生まれなかったはずなのです。

そんな楽曲を図太い声であ゛あ゛あ゛あ゛あ゛~~~~~と60間近のおっさんが歌っちゃうもんだから、まだまだ40代の僕は、これから張り切って生きていかないと罰が当たってしまいます。そうでしょ、兄やん?

ただ、ライブではなかなかに平坦な演奏でした。いや、演奏自体はグルーヴィーなロックサウンドを展開していたのですが、ボーカルがどうにもこうにも平坦なのです。いや、ああいう風に歌うこと自体、なかなかに体力を使うのかもしれません。腹の底から響かせる歌というのは、ああいう姿をしているのかもしれません。しかし、どうもイケないんだよなぁ...。イキたいんですよ。

 

5.僕のそばに (Self-Cover Ver. Remix)

8thアルバム「Nostalgia」というアルバムは前述したようにとにかくディープな作品でした。「夢を信じて」「壊れかけのRadio」の大ヒットから7thアルバム「Revolution」のオリコン1位、2ndベスト「INTRO.Ⅱ」がミリオンに迫る売り上げを誇り、完全に鼻がピノキオになっていた兄やん。それがポッキリと折れてしまって、どうしたらええんや!と雄叫びを上げたのが「もう一度あの日のように」であり、その延長線上にあるのがこの「僕のそばに」でした。

原曲はとにかくロックなグルーヴィーに満ち満ちていて、世に溢れていたチープなラブソングを鼻で笑ってやった楽曲です。中坊じゃあるまいし、チューだなんだって綺麗ごと言って騒いでんじゃねえよ、と。なんか、言葉が乱暴ですいません...。

メロディ、歌詞、アレンジ、この曲はどういじっても様になります。兄やん自らがナルシスティックに満ちた楽曲と解説していますが、そうなんです、それこそが兄やんなのです。兄やんそのものだから、どういじったって兄やんにしかならないのです。逆に16ビートにのっけてEDM風のダンストラックにしたら、その世界観も随分と軽いものに様変わりするかもしれませんが、ナルシスティックなところはそのままちゃ~んと残るはずです。だって、兄やんなんだもん。

 

6.恋人

これも徳永英明の代表曲と言えるかもしれません。微妙に世間の認知度は高いのではないかと。ただ、ここまで好き勝手に語っててあれなんですが、僕、この曲、あんまり好きじゃないんですよね...。へへっ。

なんか退屈というか、もちろん、恋人との倦怠感を歌にしたっていうところもありますが、冷めちゃったなら無理にヨリを戻す必要もなくない?というのがあって、それをねえねえ、もう一度さあ、ほら、前にデートで行ったあそこ行ってみようよぉ~、ねえねえ、そんなつまんない顔しないでよ、ねえねえ、と、もうウザイ!ってなってしまうんです。これって変ですか?

てなわけで、アレンジがどうのこうの以前に、曲の世界観に拒絶反応を起こしてしまうのです。ただ、今は「WE ALL」という楽曲があります。僕らは再生できると。それを踏まえて「恋人」を聞くと、未練タラタラな粘着系男子が、なんとなく夫婦再生の決心をした第二の人生スタート切ります男子にも見えてきます。見えてくるかなぁ...。

 

7.どうしょうもないくらい

4thアルバム「DEAR」に収録されている表題曲が私的楽曲の始まりであるなら、7thアルバム「Revolution」のラストに収録されたこの楽曲は私的作品の極致と言えると思います。とにかく90年代初頭から中期にかけて、事あるごとにこの楽曲で兄やんは叫んでいました。

今回の選曲に、どう見てもヒット曲でもなければ人気曲でもないこの曲をセレクトしているところに、2018年版徳永英明のスタンスを感じます。今さらながら兄やんが破りたい "殻" とはいったいなんなんだろう?と考えてしまうのです。

端から見れば、徳永英明という存在は、今や玉置浩二久保田利伸と並ぶ三大ボーカリストとして名を馳せています。サザンやB'zのように、決してヒットチャートの上位に居座り続けるヒットメーカーではないですが、アーティストとしては確実にその地位を確立しています。そんな彼が、今さら「素直になれない夜もぉぉぉ~!」と叫ぶ意味はなんなのでしょう。

時たまファンの僕が断定できるような事でもないですが、やはり思うのは、どれだけ地位を確立しても、そこにはジレンマが介在しているのではないかと。そのジレンマという "殻" を破るために日々創作し歌い続けているのではないかと。それが徳永英明という存在意義だと。

このアルバムの中では、一番好きなアレンジでありボーカリゼーションです。この曲を聴くためだけでもレンタルすべし!です。あ...、購入すべしです!

 

8.レイニー ブルー

どうやら、このアレンジはデビュー時のデモテープを基に構成し直したようです。徳永英明と聞くと、バラード!ピアノ曲!というイメージが強いですが、本人からすると、いやいやいや、ギターで作ってるから、もともとはフォークシンガー目指しとったから、ていうか、根は激しいから間違わんといて!って言いたげな、超原点回帰、アコギをポロロンポロロンな非常にシンプルなアレンジになっています。

とにかく、この曲、ずっと歌い続けています。

もちろん、今では代表曲として、超名曲として世に認知されておりますが、それにしても、この曲だけでいったい何バージョン存在するのでしょう。たぶん、兄やんの印税収入の3分の1はこの曲なんじゃないかと言うくらいに、まあ、人影も見えない午前0時に電話ボックスに入りまくってます。(怒られちゃうかな...)

 

9.夢を信じて

聞くところによると、この曲、タイアップの話がきた時にその場でフンフンフンと5分くらいで作ったらしく、それが自身最大のヒット作になってしまったもんだから、まあ、世の中とはなんじゃらほいと思ったそうです。

確かに肩ひじ張らないメロディーに瀬尾一三氏の軽快なリズムはポップソングとして、たぶん、超大袈裟に語るならJ-POPの夜明けを告げる楽曲だったわけです。同じアニソンの「おどるポンポコリン」も然り、世の大衆というのは小難しい文学的なロックナンバーより、意味不明の覚えやすいフレーズの方が吸収しやすいのです。僕なんて、初めてカラオケで歌ったのって、この曲ですからね。歌いやすいし、さりげなく応援歌的な側面もあるし、ドラクエだし、最強でしょ。

そんなんで、こんな曲はクソだっ!と「INTRO.Ⅱ」に収録されるまではライブでも歌わなかった兄やん。そんな意固地なところも好きなんだけど、たぶん、未だにこの曲をどう扱っていいものやら戸惑っているのではないかと思うようなアレンジでもあります。もうとことん振り切って「U.S.A.」ばりにダンスミュージックとして昇華しちゃえばいいのにと思うのですが、そこは根が真面目で根暗な兄やんです。享楽的な世界はどうも肌に合わないのでしょう。

この曲に関しては「カガヤキナガラ」のバージョンの方がまだ好きです。今回の方が手が込んでいるのはわかりますけど、どうも小手先感が...。

 

10.JUSTICE

とりあえず16thアルバム「STATEMENT」の行き着く先は、この「JUSTICE」に帰着するようです。'94年に発売されたビデオクリップ集「THE END OF A」で初めてこの楽曲を映像作品として視聴しましたが、まあ、後半のシャウトの部分からのオーケストラを従えた一大シンフォニーは圧巻でした。この曲の醍醐味はそこにこそ凝縮されていたのです。

しかし、今作のアレンジではそこがばっさりカット。その構成の意味は、叫ばなくても歌だけで叫びは伝わるはずという、バックバンドの演奏だけで叫びは表現できるはずという、なんとも奥ゆかしい編曲になっていることです。確かにトラックは凄まじいグルーヴを編み出しています。原曲にはなかったエレキギターがこれでもかとキュインキュイン叫んでいます。

ですが、何度も言うように、僕らはギターの叫びよりは、兄やんの叫びが聴きたいのです。でしょ?兄やんが叫ばないことにはイケないのです。オーガズムに達しないのです。魂が震えないのです。amazonレビューで煮え切らないと指摘される所以もここなのです。頼む、叫んでくれ。

でも、それをやっちゃうと、また頭がプッチーンといってしまうかもしれません。そうしないために編み出したのが、今回の唱法ではないかと。よくよくボーカルを聴くと、とにかく節々にうぉぉりゃぁぁぁ!という叫びが込められているのです。若い頃みたいにやたらめったらシャウトしているわけではなく、「VOCALIST」という季節を越えたからこそ表現できる唱法というものがあるのだと。そんな風にも聞こえるのです。それはそれでスゴイことだと思うのです。スゴイというか、めちゃめちゃスゴイことだと思うのです。ただ、やはり過去というか原曲への思い入れが強いのも仕方がないことでもあります。難しいところです。

 

今年のどこかで「セルフカヴァー・ベストⅡ」が発売されることが既に発表されています。そこに収録されるのが「I LOVE YOU」であることも既に公表されました。幸せ絶頂の時に編み出したこの楽曲が、「カガヤキナガラ」同様、ジャジーでアダルティーな楽曲に生まれ変わっているのではないかと容易に想像ができます。

もし、このセルフカヴァー第2弾の中に未だB面曲としてしか発表されていない「Nostalgia」が新たな姿として収録されていたら、たぶん、僕は何十回目かの兄やんブームの熱を上げるかもしれません。もし、そこに「Positions of life」が収録されていたら、たぶん、そのアルバムは神です。

兄やん、もう一度、神になってくれ!

でも、お身体も大事にしてください。お粗末様です。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第4週 私は自分のためにやったの。自分のことだけに夢中だった。

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2019年4月22日の月曜日、朝8時8分。突如、日本中のお茶の間がひっくり返り、口にしていた昆布茶がブブッ!と吹き出し、春の陽気に包まれ縁側でまどろんでいた猫がンニャッ!と飛び起きました。そうです、番長の登場です。僕も毎朝欠かさず飲んでいた明治おいしい牛乳が思わずグフッと鼻から飛び出してしまいました。

なつぞら運命の第4週目は、このすっとこどっこい34才の角倉番長に全てをもっていかれました。これは卑怯です。おいしすぎます。あの "よっちゃん" まで影が薄くなってしまうんですから、牛扱いされている彼女に両手をついて土下座しなければいけません。

なっちゃんを裏山に呼び出し、FFJの歌を謳歌し、単細胞そのままに演劇部に入部。おとなしく小道具作りに没頭しているまではよかったのですが、徐々に舞台上で自分をさらけ出し始めたなっちゃんを目前にし居ても立ってもいられなくなると、村長(むらおさ)役のメガネくんを引きずりおろし、オレ様が貫録だわさっ!となっちゃんに猛アピール。もともと34才なんだから、貫録があって当たり前じゃない!という夕美子ちゃんばりのツッコミも物ともせず、いよいよ本番です。

お茶の間は、柴田のおんじはなっちゃんの晴れ舞台に間に合うの?とヒヤヒヤしていたのですが、それよりもこれよりもですよ。番長、舞台に上がったら頭が真っ白になりやがった!番長、目が完全にイッちまってる!なんなんだ、この愛すべきキャラは!しかも何をトチ狂ったかFFJの歌まで歌い始めた!しかもトレンド入りだよ!スゲェ。

いやぁ、愛すべきキャラが大渋滞している「なつぞら」。チビなっちゃんロスまでとっくの昔に消え去ってしまいました。

 

舞台の台本として登場した『白蛇伝説』。巷ではなっちゃんのモデルとして注目されている奥山玲子さんもスタッフとして参加した日本最初の長編アニメーション『白蛇伝』の伏線ではないかと見られています。また、天陽くんのモデルである神田日勝氏が出演した鹿追駐屯地と十勝地区の酪農家たちの対立を描いた『山麓の人々』という舞台を下敷きにしているとも見られているようです。

いずれにしても、村という共同体よりも一個人の感情を優先してしまったがために、愛する者までも失ってしまうという救いのない物語に、柴田のおんじは "愚か者" の烙印を押されたと勘違いしてしまいました。同時に、天陽くん家の牛乳が決して脂肪率の低い不味いものではないのに、メーカー主導で1升につき6円も安いことに柴田のおんじはショックを受けていました。そこで出した決断が「農協に協力する。団結が必要だ」ということでした。

富山から一念勃起で十勝に赴き、開拓魂でゼロから酪農を始め、愛する妻が病気で倒れても助けてくれる者はなく、男手一つで娘を育て、やっと手にした地域一番の酪農家の地位が、今では卑怯者と後ろ指を指されている。そして、実の孫よりも可愛がってきたなっちゃんに "愚か者" 呼ばわりされた、その胸中を思うと居た堪れなくなります。

「このわしが、愚かだったか...」

いやいやいや、あなたは立派じゃないですか。いったい、何をおっしゃいますか。「じいちゃんは愚かじゃない!」と大粒の涙で否定するなっちゃんに思わず、ええいああ、君からもら~い泣~き、ですよ。やさしいのは誰です?

はい、今週も大いに笑って泣かされました。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第3週 理屈の通らんことは、これまで なんぼでもあった!

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日本中を感涙の渦に巻き込んだチビなっちゃんの活躍から週が明けて、とうとう真打すずちゃんの登場です。他人(ひと)の子の成長とは早いもので、ついこないだまでは泣き虫チビ助だったのが、いつの間にやら色気づいたり小生意気になったりしているのが世の常というやつでして...。みんなのなっちゃんも "天陽くんの畑を村のみんなで開拓するぞ!計画" から9年経つと、あの悲しみを堪えたムニムニおちょぼ口が、いつの間にやら大人びた少女へと成長していました。これが...、いい!

のっけから "柴田のおんじ" の右腕として、牛の逆子を助けようと自発的に働き、人工呼吸で鼻に詰まった羊水を口に含んで吐き出し、ひたむきな屈伸運動で見事に子牛の命を救い出したすずなっちゃん。若い子が牛の羊水を口に含むなんて、それだけでチビなっちゃんを凌駕するシークエンスで、つかみはOKってやつです。さらには、よっちゃんを牛に見立てて実演する辺り、笑いあり涙ありの楽しさが素晴らしいではないですか。

成長したなっちゃんの姿もさることながら、柴田のおんじと農協の確執が浮き彫りになった第3週目。それを良しとする人もいれば、途端につまらなくなったと感じる人もいるようです。僕的には柴田のおんじの "こだわり" もしくは "生き方" を描くための枷でしかないような気もします。

そもそも農協問題はある意味 "共産主義" に近いものがあり、もともと民主主義が絶対的正義であり、共産主義のロシアや中国は悪であると教育されてきた僕は、どうも "共産" もしくは "1億総平等" というのが納得いきません。もちろん差別はよろしくないというのは百も承知ですが、ぶっちゃけてしまうとイエス・キリストだって金持ちを天竜人呼ばわりして蔑んだ挙句に市場で大騒ぎしたこともありましたし、お釈迦様が悟りを開いたのも何不自由なく30歳まで好き放題に生きてからのお話です。僕ら下々がキリストやお釈迦様のように隣人を思いやり心を開いて生きていくなんてことは到底無理なお話だと思うのです。

柴田のおんじも妻が病気になり助けが必要だった時に誰も助けてくれなかったという挿話がありました。それはなっちゃんも同じです。誰かに助けてもらいたいと思っても、結局は両親を戦争で失い、兄妹は散り散りになってしまいました。そんな心の痛みやら傷やらを抱えながら、それでも笑って泣いて逞しく生きているのがなっちゃんであり柴田のおんじであると。剛男さんが優男で、いくら相手を可哀そがっても(それが心の底からの本心であっても)、所詮、物の高みから下々を見下ろしている夕見子ちゃんとなんら変わらないのではないかと。あんた、たくさんお金を持ってるんだから、恵まれないこっちにも寄こしなさいよ!と急に言われたって、まずはその恵まれない境遇をどうにかしようと努力しないのかっ!と思うのも仕方がないのではと。僕は柴田のおんじの頑固さに一票です。剛男さんは机上の理論で正論を振りまいているだけです。

それでも、最後には天陽くんの牛も可愛がってあげなさいと、優しくなっちゃんに寄り添う柴田のおんじ。うう...。おんじ、最高。

 

ふと思いましたが、夕見子ちゃんの立ち位置って、僕ら視聴者のツッコミを代弁している気がしてなりません。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第2週 事情なんか くそ食らえだ!

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今週も大いに泣かされました。

そして、チビなっちゃん編も今週で終わりのようです。

ええええええええ!!!!!

もう一週ぐらいやろうよぉ~。

あの健気さが一日の活力になってたのに...。

 

今週のテーマは「怒り」です。

というよりも、朝ドラ一週間では物足りなくて、

今週は土曜日の連続再放送を観ました。

全部で一時間半です。

90分、CMなしです。

ぶっ続けで観ちゃいました。

へへっ。

 

父親を奪った「戦争」

兄弟を散り散りにした「浮浪児狩り」

そして、それを引き起こした「時代」

そんな居たたまれない境遇に対して、

チビなっちゃんの怒りが爆発したのが神回の "9話"。

日本中が涙しました。

 

涙しながら、僕は思いました。

果たして、僕はここまで本気で怒ったことがあるだろうか。

 

イラつくことは毎日腐るほどあります。

レジで先客がもたもたとサイフから小銭を出していると、

なぜ、前もって準備をしていないのかとイライラする。

駅の改札口、ひっかかる人間がいると舌打ちをしてしまう。

その挙句に目の前で電車のドアが閉まった日には、

さっきの改札口でひっかかった人間をひっ捕まえて、

構内中を引きずり回したくもなります。

でも、それは「怒り」ではない。

単に自己中な思い込みにしか過ぎません。

自分自身に余裕がないため、他人にあてこすりしているだけ。

頭ではわかってますが、その場ではついカッ!となってしまう。

ちっちぇなぁ...。

でも、少しは後ろの人に気を遣うのも必要ではないかとも思う。

 

ボロ家住まいの天陽くん。

郵便屋さんのお父さんは、それを恥じています。

そして、もともとは東京に居たというプライドもある。

でも、子供にはそんなこと関係ありません。

チビなっちゃんから見ると、

お父さんもお母さんもいて、お兄ちゃんもいる天陽くんは、

そりゃあ、羨ましくてしょうがない。

幸せなんだろうなぁと思う。

でも、天陽くんは叫びます。

「ちきしょう!バカ野郎!」

 

なっちゃんのお父さんがウッチャンだったことも判明した今週。

あの馴れ馴れしいナレーションの意味も、これで解決ですが、

そのウッチャンお父さんも手紙で叫んでいました。

「ちきしょう!バカ野郎!」

 

本気の「怒り」には、本気の「悔しさ」が必要なんです。

ありますか?

心の底から「悔しい」と思ったこと。

歯ぎしりするほど「悔しい」と思ったこと。

身を焦がすほどに「悔しい」と思ったこと。

 

僕にはありません。

完全に温室で育ってます。

湯温40度のぬるま湯でふやけまくってます。

そうなんです、僕は夕見子ちゃんと一緒なんです。

 

牛乳は嫌いだから飲まない。

私のものは私のもの。

苦労したり痛いことしたりするのは男の子の役目。

映画を見てるとお便所に行きたくなる。

私は我慢できるけど、なっちゃんは漏らしたに違いない。

おいしいものは好き。

見た目が大事。

ああ、貧乏臭いのはヤダヤダ。

ああ、田舎臭いのはヤダヤダ。

そうして、昭和は平成になり、令和になろうとしています。

 

チビなっちゃんを観て泣いている自分は、

たぶん、夕見子ちゃんと同じで、

物の高みから可哀いそぶってるだけなのかもしれません。

そういう一面は確実にあると思うのです。

 

しかし、その裏側では、

本気で悔しがって、本気で怒って、本気で笑っている、

そんななっちゃんが羨ましくもあるのです。

かつては何かに本気で取り組んでいたあの日の自分、

それを失ってしまったことへの涙なのかもしれないのです。

 

柴田のおんじは富山出身でした。

身一つで北海道にやってきましたが、

なかなか簡単に人生は進んでいきません。

そこで教えを請うたのが「晩成社」という開拓団。

彼らから牛飼いの道を進められ今に至ったようです。

 

柴田のおんじのその懐の深さと気骨さは、

ドラマのスタート時から絶賛されていましたが、

そのバックボーンには、

今に至るまでの並々ならぬ苦労があってこそだと、

だからこそ、チビなっちゃんも心を開いたのだと、

そんなことも描かれていた一週間でした。

 

何か新しいことを「開拓」しようとした時、

そこにはとてつもない大きな壁がそびえています。

若い頃は、そんな大きな壁を壁とも思わず、

ぶち当たって、転がり落ちて、それでも立ち上がって、

これぐらい、なんぼのもんじゃい!と笑っていました。

それが楽しかったのです。

 

それが今ではどうでしょう...。

天陽くんのお父さんと同じで、

無理して過酷な状況で生きていく必要はない。

大人の事情ってものがあるんじゃい。

改札口はスマートに通り過ぎろ。

レジでもスマートにキャッシュレスでいけ。

スマート、スマート。

なにごともスマート。

大人だろ。

ガタガタ騒ぐな。

長いものに巻かれろ。

忖度しろ。

 

「くそ食らえだ!」

 

柴田のおんじの一喝に目を覚まされました。

そうなんです。

目の前で真剣にもがいている人間がいる。

お前はそれを

ただふざけて溺れているふりでもしていると、

そうな風にあざ笑うのか?

目ん玉はどこについてる?

前を見るためについてるんじゃないのか?

目をそらすなら、

そもそも見えるところにいるんじゃない!

目の前のことに目をそらすな。

今を真剣に見つめろ!

覚悟を決めたら、最後までやり通せ。

その昔、僕を育ててくれた先輩たちの声が響きました。

忘れていました。

僕たちはただ生きてるんじゃない。

生かされているんだということに。

先人たちの功績の上に僕たちの今があるということに。

 

もう、いろいろと考えさせられた90分でした。

泣いて、笑って、思い知らされて。

ああ、いいドラマだなぁ。

まだ2週目だけど...。

来週からはすずちゃんかぁ...。

またチビなっちゃんの出番が来ないかなぁ。

【連続テレビ小説「なつぞら」】第1週 ちゃんと働けば、必ず いつか報われる日が来る。

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あまりにブログを更新していなかったので広告が出るようになってしまいました。

てなわけで、朝ドラ「なつぞら」です。

平成から令和に変わろうが、暦が4月から5月に変わろうが、

今日は昨日の延長線上にあり、明日は今日の地続きなのです。

寝て覚めたら別人になっているのはカフカの『変身』だけです。

陽は昇り、月や星が輝き、風が吹く日もあれば、雨も降る日もある。

そんな当たり前すぎてなんの意識も向けない "自然" を感じさせてくれる、

そんな素敵なドラマがスタートしました。

いやぁ、朝ドラ100作目、朝から泣かされてます。

 

もともとNHKはあまり観ていませんでした。

というか、僕は2011年以来の筋金入りの「ZIP!」派でした。

朝から気分が滅入る「占い」がないのが一番の理由。

ところが先々月ぐらいですか、

児童虐待のニュースがあまりに盛んになりすぎてて、

そんなニュースは見たくない!とNHKに切り替えたのです。

そしたら「まんぷく」ですよ。

カップヌードルですよ。

武士の娘、鈴さんですよ。

 

朝はゆっくり見れる日もあれば、オープニング前に家を出ることもあります。

見れたり見れなかったりするので、週末の「朝ドラ一週間」が重宝します。

もちろんオンデマンドで無料で見ることもできますが、

さくっと20分にまとめられた方が楽なのです(かなり端折られてますけど...)

 

今週は主人公のなっちゃんと十勝の柴田牧場との関わりが描かれていました。

見知らぬ土地にやってきて、こわもての "おんじ" が出てきたら、

なんじゃい、まんまハイジじゃないか!と日本中がツッコミを入れていましたが、

この草刈正雄さんの "おんじ" 、いや柴田さんがいいんですわ。

ヨーゼフはいないけど...。

 

藤木直人さん演じる剛男さんが、戦地の友人の頼みを聞いて、

なっちゃんを十勝に連れてきたのですが、

その軽はずみの行為に対しても柴田のおんじは、

「犬猫拾ってくるのとは訳が違うんじゃい」と一喝。

こういうさぁ、気骨のある親父って、最近、見なくなったよねぇ...。

 

健気ななっちゃん千尋並みに「ここで働かせてください!」と頼むんだけど、

それをなんの迷いもなくドン!と受け入れたのも柴田のおんじ。

そして、キキ並みに早起きをして、

一生懸命に働くなっちゃんを最初に認めたのも柴田のおんじ。

そのご褒美としてアイスクリームをご馳走になるんだけど、

そのシーンが泣けること泣けること...。

 

お兄ちゃんからの手紙を待ちきれなくて、

とうとう十勝を飛び出してしまったなっちゃん

ああ、来週も朝から泣きそうだ。

スピッツの主題歌も最高だよね。

深読みインランド・エンパイア② Act

「The Return」を解読するための『インランド・エンパイア』解体シリーズ

第2回「自己投射に映るもの」

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前回では『インランド・エンパイア』という映画の大枠の話をしましたが、今回も構造の大枠の話になります。

内藤仙人さまは『インランド・エンパイア』について "テレビ" という媒体を挟んで "ダブル2本道" と解説していました。2本道というのは、ユング的に言うとペルソナ街道とシャドウ街道の2本道、仏教的に言うとあの世街道とこの世街道の2本道ということになります(合ってるのかな?)。それがダブルということは、ペルソナ街道の中にあの世街道とこの世街道があって、シャドウ街道の中にもあの世街道とこの世街道があると。それが高速道路みたいに地上にも地下にも幾重にも絡み合っている状態で、あっちこっちにジャンクションがあって、カーナビなしじゃ無理でしょ!わかったかい、チミは!って事だと思うのですが、まあ、普通になんのこっちゃという感じでもあります。

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このDNA螺旋のように入り乱れている構造を一つ一つ解体していってもなんの解決にもなりません。そもそもヒトゲノムをプログラミングに置き換えて0か1の組み合わせとして考えると、解体したって "ある" か "ない" かの区別にしかならないのです。だったら、ツイスト・ドーナツのようにまるっと美味しく食べてしまった方がよっぽど簡単です。

そこで『インランド・エンパイア』です。この映画にもまんべんなくパウダーシュガーがまぶされています。そのパウダーシュガーとは何か?というと "映写機" です。

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おわかりでしょうか?初っ端にブウンと映写機が回り始めて映画が始まると、撮影を重ねていき、最終的にこの物語は「あなたの内面を撮影したものなのだよ」と劇場の映写機が映し出されて映画は終わり、内なる宮殿のエンドクレジットが始まるのです。全てはスクリーンの中の話でした、めでたしめでたし。こんな感じです。

では、そのスクリーンに映し出されていたものは何か?というと、端的に語ってしまえば、ニッキー・グレイスという魂の自己投射ということになるのです。類語で言えば自己投影。僕たちがジャッキー・チェンの映画を観て、おおっ!オレもビルの五階からオーニング伝いに飛び降りることができるんじゃないかっ!と錯覚してしまうのが自己投影。トム・クルーズの映画を観て、おおっ!オレもMA-1を羽織ってバイクをかっ飛ばせば美人教官とチョメチョメできんじゃねぇかっ!と妄想に走るのが自己投射です。例えが80年代映画で申し訳ありませんが、ニュアンスは伝わるでしょうか。自己投影してしまった人は大怪我をした挙句、警察に事情聴取を受けるハメになり、最終的に器物破損でお店から損害賠償を受けることになります。自己投射してしまった人は己の自我とは別の人格、別の容姿を手に入れようと行動を繰り返し、最終的に自分はトム・クルーズでもマーヴェリックでもないと気がつくまで、妄想の世界で生き続けることになります。そんな精神の遍歴を映画にしてしまったのが『インランド・エンパイア』であると。うん、妄想が激しいというヤツですな。

なので、劇中劇の中に劇中劇があるという、なんともややこしい構図になっていて、マーヴェリックがテレビを観ていると、その中ではアイスマンバットマンになっていて、アイスマンバットマンはなぜかトム・クルーズの奥さんニコール・キッドマンと仲が良くて、それを観ていたマーヴェリックは嫉妬してバーに走ったら、いつのまにかストックカーレースに出場していて大事故を起こしてしまい、気がついたら目の前にニコール・キッドマンがいましたみたいな、そして、それを体験しているのは先ほどのMA-1を羽織ってバイクにまたがったオレ!みたいな、こんな感じなのです。パロディとかツイスト・ストーリーとかそんなまともな話じゃなくて、完全に連想ゲームです。

「ツイン・ピークス The Return 考察 第14章 根幹」の中で「感覚映像-自由連想仮説」の話をチョロッとしているのですが『The Return』も『インランド・エンパイア』も、このリンチ監督の "自由連想" を映像化したものであり、物語の構図は両作品とも似通っているのです。とは言いつつ、片方はマーク・フロストという稀代のエンターテナーが携わっているので『インランド・エンパイア』に比べると数百倍わかりやすくなっています。なので『The Return』の17章では、ぼんやりクーパーが現れて「僕らは夢の中で生きている」なんていうネタバラシをしてしまうハメになっています。ナイドの顔がパキパキッと割れて中からダイアンが出てくることも然りです。

 

さて、2000文字が近づいたところで、次回は劇中劇の舞台について語っていきまっせ、姐さん。

深読みインランド・エンパイア① Axx on n'

「The Return」を解読するための『インランド・エンパイア』解体シリーズ

第1回「意識の階層を下りていく」

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てなわけで『インランド・エンパイア』です。『The Return』の18時間を経た今となっては、この3時間もある超大作も、ニッキー・グレイスという女性のトラブルをダイジェストで観ている感覚に陥るような、そんなかわいいものに感じます。

前作『マルホランド・ドライブ』が『ツイン・ピークス』同様、テレビ向けの連続もので企画されていながら、結局、映画として制作され、圧倒的なリンチ・カムバックを果たしたのは、ひとえにそのわかりやすさにあると思います。さらにナオミ・ワッツのあのミニマム・キュート、ローラ・ハリングのダイナマイト・セクシーが作品に華を添えていた事実は、僕が語るまでもないでしょう。

それに比べると『インランド・エンパイア』は難解で、ほぼ3時間まるまるローラ・ダーンの独断場になっています。『マルホランド・ドライブ』に存在していたコメディ要素もほぼ皆無で、ひたすらニッキー・グレイスという女性の内面へと潜っていくストーリーが展開されていきます。それをわかりやすく図解すると、この映画のようになります。

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2010年に公開されたクリストファー・ノーラン監督の『インセプション』。この映画は夢から夢へと階層を下りていき、最終的に "虚無" と呼ばれる深い領域、深層心理、もしくは潜在意識と呼ばれる部分まで落ちていくのですが、『インランド・エンパイア』も全く同じ構造になっているのです。この構造さえ理解できれば『マルホランド・ドライブ』と同じように、この映画を数倍、楽しめるのです。

 

では、その "意識の扉" はどこに存在するのか?ということになるのですが、それが "Axx On" になります。カタカナにすると "アックス・オン" です。間違っても "エー・チョメ・チョメ・オン" ではありません。いや、もしかしたら "エー・チョメ・チョメ" なのかもしれませんが、そんなリンチ・ダジャレはここでは触れないことにします。

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さらに、意識の階層を下りていくということは、おっと、また出ましたユング!みたいな感じになりますが、顕在意識から潜在意識へ、さらには集合的無意識へとダイブしていく行為とイコールになります。『The Return』の第8章で原爆のグラウンド・ゼロへ向かってカメラがどんどん進んでいく映像がありましたが、あれと同じような感じで、ニッキー・グレイスという魂のグラウンド・ゼロに向かってカメラがどんどん突き進んでいくイメージなのです。地球のコアに向かってカメラが進んでいくみたいな。

 

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で、映画の冒頭です。ここで既に第一の意識の扉が開きます。"Axx on" なんて、どこにも書いてないじゃないか!と思われるかもしれませんが、いやいや、ラジオDJの語りによおく耳を澄ましてください。

"Axxon N., the longest running radio play in history tonight, continuing in the Baltic region."

そうなんです、『インランド・エンパイア』という映画は「アックス・オォン!」の叫び声から始まるのです。ここで既に第一の扉が開かれているのです。では、次の階層に進みましょう。

 

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映画が始まってちょうど1時間ぐらいで第二階層の扉が現れます。リンチ監督も優しいですよね、ちゃんと下に降りて行けと矢印まで書いてくれています。時間もちょうど1時間くらいというのも憎いです。デジタルカメラで好き放題に撮ったんだと言いながら、編集でちゃんと緻密に計算しているのだから、侮れません。

ローラ・ダーンの家に引越の挨拶に来た "来訪者ローラママ" が語っていた「小さな女の子が市場で迷子になった。市場は通り抜けちゃいけない。裏の路地をいかなくちゃ」というセリフを体現するように、ニッキー・グレイスは裏路地から第二階層へと潜り込んでいきます。その先は潜在意識の世界。"来訪者ローラママ" は「宮殿へ行く道」と語っていました。

顕在意識の世界では女優としての自覚、妻としての自覚があったニッキー・グレイスですが、潜在意識の世界に潜り込むと世界は一変し、己自身の中にある欲望が剥き出しになっていきます。そして、憎しみは雪だるま式に膨れ上がり、最終的に『The Return』でいう "化身" トゥルパが産まれます。そこで次の第三階層の入口が開きます。

 

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第三階層のスタートもほぼ映画が始まって2時間後になっています。こうして観ていくとリンチ監督は各階層を1時間ごとに描いていることがよくわかります。内藤仙人さまが「リンチ監督は神経質な設計士」と断言していた所以もここらにあると僕も思うのですが、この緻密な構成は『The Return』にもしっかり継承されていて、巷で言われている "老害ノロノロ映画" とは本質がまるで違うのです。

ここからは集合的無意識の世界に突入し、ポケベル・ナイドが宮殿の話をしだしたり、ニッキーが肉体的な死を経験したりと、物語はとにかく魂の深く深くと潜り込んでいきます。そして、その先には "劇場" が存在し、さらにその先に『インセプション』でいう "虚無" の世界、集合的無意識の先にある世界、"己" が待っています。

 

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この第四階層の扉に辿り着くまでの魂の軌跡を描いたのが『インランド・エンパイア』なのです。『The Return』でいうところのグレート・ノーザン・ホテルのボイラー室にあった扉と同じってやつです。その先でニッキー・グレイスは己と対峙することになります。そして、それに打ち勝つことによって宮殿に辿り着くことができた。

 

てなわけで、第1回は映画の全体像を把握するに留めておきます。次回は『The Return』第17章のぼんやりクーパーの謎がわかるのか?、"劇中劇" についてさくっと語っていきまっせ、姐さん。

「深読みインランド・エンパイア② Act」

『インランド・エンパイア』を紐解いてみようと思う

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【作品情報】

タイトル:INLAND EMPIRE

監督:デイヴィッド・リンチ

脚本:デイヴィッド・リンチ

日本公開:2007年7月21日

上映時間:179分

 

『The Return』のナイド論を整理する際に避けては通れないのが、このリンチ史上最強に意味不明で最高にイマジネーションに溢れた超イミフ映画『インランド・エンパイア』ではないでしょうか。

21世紀を迎え、なんでもかんでもデジタル化された世界で、フィルム代を気にしないでいくらでも撮影ができるじゃないかっ!ヤッホーイ!と、SONYデジタルカメラを片手に、こんなん思いついたからどうよ、とりあえずローラ・ダーンの家で撮影してみようよ、ヤバッ!めっちゃ楽しい、これはどうよ、それもいいじゃない、ええい、ポーランドまで行っちゃおうぜ、スゲェ、デジタル最高!と、まあ、リンチ監督が2年半かけて好き放題に撮った作品です。なので物語は脈絡がなく、もっとわかりやすい作品にしてくれ!と配給会社がせっついても聞く耳を持たず、お金がなくなれば前妻から借金をし、挙句の果てには主演のローラ・ダーンが「しょうがないから私が制作者として名前を出すわよ、でなきゃ公開もされないんでしょ?」とスタジオ・カナルを説き伏せ、映画のプロモーションにかけるお金もなくなると、ハリウッドのど真ん中に牛を連れて「チーズ」を連呼、ホント、爺さん、気が狂ったのか?と言いたくなる状況でした。

そんなキチガイ爺さんの映画を3時間も観続けるのは、観てる方もキチガイではないのかと思いますし、それを最高傑作と騒ぐのはもっと気が触れているのではないかと思います。そんなキチガイが僕です(笑)。でなければ、こんな映画を何回も何回も観るわけがありません。

さらには2時間半経ったところで、そろそろラストに向かって何かエライことでも起きるのか?と思っていると、天下のポケベル裕木奈江先生がたどたどしい英語でヴァギナを連呼、ちょい役の割には重要なセリフをどんどん語っていくわけです。それはいいとしても、どうにもこうにもこのたどたどしい英語が耳に触り、一気にリンチ世界から興ざめしていくわけで...。2時間半も意味不明な映像を観て最終的に興ざめするなんてこんな拷問はありませんぜ、姐さん。

しかし、世の中とは不思議なもので、10年前はポケベルがリンチ作品を台無しにした!と騒がれていたのに、今では国際派女優だそうです。手の平返しとはスゴイものです。そして、その役柄である "ナイド" が『The Return』の中ではかなりの重要なキャラクターときたもんだから、まあ、見過ごすわけにはいかないわけです。ただ、リンチ監督もお勉強したのでしょう。"ナイド" にはいっさいセリフがありません。ピーピー鳴いているだけです。まあ、これにも深い意味がありそうで、なかなかなのですが。

そんなわけで、秋クールの連ドラがどれもこれもつまらないので、完全にリンチ・マニアしか興味を示していない『ツイン・ピークス The Return』を振り返ろうかと思い、さらには、その前菜として、この『インランド・エンパイア』を、またまた小出し連載の形で紐解いてみようかと思います。

ツイン・ピークス』同様、映画公開から10年の間にいろいろと考察、もしくは妄想され続けている映画ですので、今さらファントムはスー自身の影なんだぜっ!とか、劇中劇の内容はシーンの彩度で見極めていけばつながっていくんだぜっ!とか、ロコモーションガールは単なるリトルピープルなんだよなっ!とか語るつもりはありません。どちらかと言うと、ググってもあまり語られていない部分に焦点を当てながら、内藤仙人さまが語っていたようにダブル2本道、鯵の開きをおいしく食べる方法を書き込めていければと。

では、姐さん、次回の『インランド・エンパイア論』は "AXX ON... and" ですよ。

「深読みインランド・エンパイア① Axx on n'」

【dele #8】削除と附与

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『dele (ディーリー)』

第8話(最終回)

監督:常廣丈太

脚本:本多孝好

 

いいドラマだった。

そう思う。

でも、なんだろう。

最後にやっちまった感が残る。

何をやっちまったんだろう?

たぶん、あれだ。

たぶんね。

 

第1話「横領事件」

第2話「生前葬

第3話「公安」

第4話「超能力」

第5話「同性愛」

第6話「いじめ」

第7話「冤罪」

第8話「薬害」

各話のテーマをこうして並べてみるとケイと祐太郎くんの人生が見えてきます。うん、見えてはくるのですが、その反面、オカズにされた問題たちが深刻すぎて、それを上辺だけ掬ったようになってしまっているのです。

前々から事件の核心を語らないドラマだとは思っていましたが、それはあえて "語らなかった" わけではなく "語れなかった" のです。それが今回わかりました。なぜ語れないのか。わからないから。理解できないから。というよりも、僕と同じように単にググっただけで知った気になっていたから。うん、わかったつもりでいても、結局、こうなんだよね。

浅はかだな...。

 

第6話の「いじめ」の時にも思いましたが、今回の「薬害問題」も、古沢氏脚本の『リーガル・ハイ』と比べてしまうと、『ディーリー』はどうにもこうにも正々堂々と正面から戦ってないんですよね。戦うように見えて小手先に逃げてしまう。いや、物事を見る視点が偏りすぎている。もちろん、他の視点も見ているんだろうけど、それを混ぜてしまうと収拾がつかなくなるから、あえて見ないことにしている。この目をつむってしまっている所が春樹チルドレンと呼ばれる所以でもあるんだろうなぁ...。

もちろん『リーガル・ハイ』は弁護と検察という対局する同士が戦うドラマなので、どうしてもテーマに対して正面から向き合い、いろんな視点の中から主人公としての答えを導き出していかなければならない所はあります。それを毒を喰らわば皿までと、酸いも甘いも腹に落とし込んで、とりあえずゲラゲラ笑っていたのが古美門研介という男でした。

そういう視点で見ると、祐太郎くんがただただ被害者として怒りをぶちかまし、被害者として無力感に捕らわれ、被害者として周囲に "優しさ爆弾" をバラ撒いているのは至極当然の姿だとは思います。しかし、"物語" が祐太郎くんに寄り添ってはいけないと思うのです。"物語" はあくまでも祐太郎くんを通して僕たちが生きているこの "世界" を描くべきなのです。

期待していた最終回ですが、結果として、祐太郎くんの復讐劇で終わってしまいました。ムカツクあの野郎をとっちめてやった。はあ、スッキリした。さ、ゼロから始めようぜ!

 

マジか?

マスかいただけじゃねえか!

 

たぶん、こういうところが小説とドラマや映画の違うところなのかもしれません。もしかしたら、本多脚本はもっと違うエンディングが描かれていたのかもしれない。しかし、映像作品を総合的に作り上げていくのが監督さんです。監督さんが、このエンディングは違うっ!と思えば、簡単に書き換えられてしまうのかもしれません。というか、そう思いたい。あの『正義のミカタ』や『at HOME』で幾重もの視点から現代の救いを導き出していた本多作品がこれとは思いたくないのです。本当に『ストレイヤーズ・クロニクル』で勘が鈍ってしまったのか?集英社なんかで中二病をこじらせた少年マンガの原作みたいなものを書いちゃうから、こうなっちゃうんだよ(泣)

 

ケイが笑った!とか、

舞姉さんの色気がヤバすぎ!とか、

麿 赤兒さん、ラスボス感ハンパない!とか、

なんだかんだ言いながら楽しかったです。

楽しかったんですけど、

マスはかいちゃいけません。

そういうことはこっそりやってください。

【dele #7】猜疑と拠所

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『dele (ディーリー)』

第7話「死刑囚の告白」

監督:常廣丈太

脚本:徳永富彦

 

巷では「結局、犯人は誰なんだ?」とモヤモヤしてる人が多発しているようですが、そんなモヤモヤを解消するため、今さらのように5年前の未遂事件を引き出して、犯人に祀り上げられてしまったのが今回の笹本清一だったと言えます。物的証拠もなく、地域住民の証言だけで死刑判決が下され、8年間、ひたすら無実を訴えても棄却され続け、挙句の果てには死刑が執行されてしまう。世間的にはこれで事件は解決、悪者は始末された、とスッキリしているのが現状だと。やっぱり犯人はあいつだった。めでたし、めでたし。しかし、裏を返すと、5年前の未遂事件で被害者は一命を取り留めており、今回の毒物混入事件が冤罪だとしたなら、笹本清一という男は誰一人殺してもいないのに死刑が執行されたことになります。それに対して祐太郎くんは「すっげえ、気持ち悪い!」と吐き捨てます。ホンット、このドラマいいですね。

 

ミステリーという性質上、どうしても誰が真犯人なのかを考えたくなります。ドラマを見てパッと思いつくのが下記の4点。

①「余所から来た」と女の子が言っていたからやっぱり笹本隆が真犯人。小瓶には処方された薬を入れていたと父親が言っていたのは嘘で、あれが青酸だった。

②最後に笑っていた5人が共謀してそれぞれのターゲットを殺害した。その様子をスマホで撮影していた笹本隆は女の子に「飲むと死んじゃうよ」と忠告した。

③女の子にジュースを飲むように勧めたおばちゃんが真犯人。上記の5人の裏事情を知り、それぞれのターゲットに致死量の青酸入りジュースを当時配り歩いた。

④笹本隆を自殺に見せかけて殺害した13年前の未遂事件の被害者が真犯人。あえて犯人を登場させず、物語の裏で物語が流れているというのが狙い。

こんな風に、あいつが怪しいとか、あの時のあの言動が裏付けだとか、そういえばあの時こんなLINEをしていたとか、いろいろ疑うその "猜疑心" が今回のテーマだったと言えます。それをミステリーという道具を使って視聴者をうまくミスリードした徳永脚本が秀逸だったと。

 

では、今回の物語に登場した人物たち、それぞれに焦点を当ててみます。

 

◆笹本清一(自称・派遣社員

2005年、自身が経営していたメッキ工場が倒産寸前になり、従業員である一人の工員に青酸を飲ませ保険金をだまし取ろうとするが未遂に終わる。殺人未遂として懲役5年の実刑判決を受け、出所後、児童施設に預けられていた息子の隆を引き取り、埼玉県川本市に移り住む。2010年8月、町のバザー会場で発生した毒物混入事件の容疑者として逮捕され、取り調べに対して犯行を自供する。しかし、裁判が始まると無罪を主張し、一審では証拠不十分として無罪判決になるが、検察側の控訴による二審で逆転有罪になり死刑判決が下される。弁護側が上告するも最高裁がそれを棄却し、2018年、刑が執行される。享年53才。

【猜疑的解釈】

物語で語られていたように自身の身を守るためなら従業員を殺害してでも生き延びようとする卑劣な男として見ることができる。舞さんも面会した後「信用できる人間かどうか正直わからなかった」と語っている。人を威圧するところがあり、マスコミに対して暴力を振るう様子が撮影されていることからも、前科者として世間から蔑まされていた腹いせに犯行に及んだと解釈することができる。

【拠所的解釈】

そもそも従業員殺害未遂の犯行が笹本ではなく、役員など笹本の部下による犯行だった場合、部下の罪を被って自らが実刑判決を受けた可能性もある。今回のバザー毒物混入事件も、息子の隆の犯行だと知り、息子の罪を被る為、同じように犯行を自供したのかもしれない。しかし、前科者だと罵られ、世間からの冷たい視線に怒りを覚えた笹本は、裁判になると町の住民たちのせいだと語り始めた。息子が罪を犯すまでに追い詰めた町の住民たちが悪いのだと。

 

◆上野兼人(レストラン経営)

南鳩山にあるレストラン「ビストロ・プルミエ」の店主。定番メニューはハンバーグ。妻の成美、母の美奈子と暮らしている。8年前の毒物混入事件で娘の幸子(当時5才)を亡くす。穏やかで人当たりが良い。レストランは町内会の会合に利用され、ある日、市議会議員の宮川新次郎が土木会社社長の中山剛から談合を持ちかけられている姿を目撃する。また、その市議会議員の宮川と妻の成美が不倫の関係であることを知り、2010年頃には二人の様子を密かに撮影していた。8年前の事件当日、母に娘を預けていたと語っているが、事件が起きたバザー会場に上野の車が駐車されている様子が撮影されており、サイドミラーが折りたたまれていなかったことから、事件が起きるまで車内に隠れていた疑いがある。

【猜疑的解釈】

妻の不貞をことごとく追い掛け回し撮影していることから陰湿な性格の持ち主なのかもしれないということ、またその写真を利用して市議会議員の宮川を脅していた可能性もある。妻の成美と宮川の不倫がいつから始まったのかは描かれていないが、仮に娘の幸子の父親が宮川であったなら、その関係を終わらせるため、あえて娘の命を奪ったと解釈することもできる。その結果、母親の痴呆が始まり、介護に追われる妻の姿に今では満足している。最後の笑顔は8年前の事件で今の地位を築いたことへの優越感でもあると。

【拠所的解釈】

8年前の事件が起きるまでは妻の不貞に嫉妬し、バザー会場に車を乗り付け見張っていたりもしたが、娘を亡くしたことをきっかけに夫婦仲が戻ったと解釈することもできる。事件を契機に妻と宮川の関係も終焉し、8年の月日が経ったことで、今ではお互いに笑って話せるまでになった。

 

◆和田保(小売店経営)

南鳩山にある食料雑貨店「和田商店」の店主。未婚。上野と同じように表面上は人当たりが良いが、一旦ブチ切れると途端に暴力的になる。近くのアパートで病気がちの母親と暮らしていたが、8年前の事件でその母親を亡くす。店を訪れた祐太郎には8年前のバザー会場には行ってなかったと証言するが、隆が撮影していた映像には会場の準備を手伝う姿が映っていた。また、母親の介護に苛立ち、日常的に家庭内暴力をふるっていた様子も撮影されている。

【猜疑的解釈】

町の小売店を経営していることから町内会の会合に彼も出席していた可能性は十分にあり、そこで宮川や上野と裏で結託し、8年前の事件に関与した疑いがある。未婚である理由も母親の介護に携わっていたからだと決めつけ、人生を母親に奪われたと憤っていると解釈することもできる。地主である宮川から土地を借りていると語っていたが、ラストの仲睦まじい姿は、どちらかと言うとリーダー的存在の宮川とつるむ昔ながらの悪友のようにも見受けられる。

【拠所的解釈】

母親の介護に疲弊し、家庭内暴力をふるっていた事実はあるが、それも8年前のことである。小売店の経営という決して稼ぎが良い状況ではない上に、痴呆を患った母親は上野の母親と同じように商品を勝手に開封したりと、病院の治療費の他にも金銭的に和田を圧迫していた可能性もある。8年前の事件で母親を亡くすことにより、介護からは解放され、保険金が入ったことにより金銭面でも余裕が生まれた。それでも上野の母親への態度から垣間見えるのは、過去の母親の姿を目の前にすると咄嗟に暴力的な態度に出てしまうという、その介護生活が相当のトラウマになっていることである。8年ぶりの町内会バザーへの参加は、そんなトラウマから抜け出す第一歩であると解釈することもできる。

 

◆宮川新次郎(市議会議員)

川本市の市議会議員であり、南鳩山の地主。妻と娘の茜と暮らしている。世間的には町おこしに熱心な人物として人望を集めているが、市議会に出馬した際、地元の有力企業である土木会社社長の中山剛の力を借りて、票を買収していた疑いがある。また、隆が撮影していた映像には、事件の核になるウォータークーラーに不審な粉末を混入していた姿が映っていたが、本人は「ジュースの粉末を入れただけ」と事件への関与を否定した。上野の妻である成美と不倫の関係にあり、その姿を夫の上野や娘の茜に目撃されるなど脇が甘いところがある。

【猜疑的解釈】

長いものには巻かれ、不倫現場がことごとく目撃されていることから、相当な跡取りお坊ちゃんであることは否めない。中山からの圧力、上野からの圧力から解放されるため、ちょうど町に引っ越してきた笹本親子に目をつけ、毒物混入を企てた可能性がある。ジュースの粉末に青酸を紛れ込ませばウォータークーラーに毒物を混入させることが可能で、その結果28名もの町民がその被害にあってしまう。しかし、本当に殺害したい人物には致死量の毒が入ったジュースを渡しており、そのターゲットが土木会社社長の中山と、上野から指示された不倫でできた子供である幸子であった。上野はその行動を監視するためにバザー会場に駐車した車内で宮川を見張り、和田はこの計画を聞きつけ、どさくさに紛れて自分の母親を殺害した。

【拠所的解釈】

市議会に出馬したのは土木会社社長の中山の策略であり、本人は至ってあけっぴろげな不倫に興じているおとぼけ君である可能性もある。ウォータークーラーに入れていた粉末は、本人が言うように本当にジュースの粉末であったが、疑われてもおかしくない行動をわざわざしてしまうところが、宮川のおとぼけ具合を助長している。議員でありながら不倫に興じているのがバレバレなところも然り。事件によって偶発的に中山が死亡すると、カセが外れ、この南鳩山を住みやすい町にしよう!と、これまたお坊ちゃん的な発想で能天気な献身愛を発揮する。根は素直で良い男だが、周りから持ち上げてもらわないと何もできないお坊ちゃん気質は、ある意味、今回の事件をひっかき回した張本人とも言える。

 

◆宮川茜

宮川新次郎の娘。詮索好きで、自宅を訪れたケイに興味を抱く。8年前に方々で撮影をしていた笹本隆を目撃し、ケイに「なんか気持ち悪かった」とつぶやく。父親が車中で浮気をしている現場を目撃し、8年前の事件の首謀者は父親ではないかと疑いを抱く。隆が撮影していた動画の中に売人とドラッグの取引をしていた姿が映っていた。ケイに突然キスをしたかと思うと、次には平手打ちを喰らわすなど、父親に似て自己中心的な典型的なお嬢様気質であることが伺える。

【猜疑的解釈】

ケイが疑いの眼差しを寄せたように、売人との間でトラブルが発生していたとしたなら、もともとの詮索好きが高じて父親の毒物混入計画を知り、和田と同じようにどさくさに紛れて売人を殺害した可能性がある。世間的には仲睦まじい議員の父親とその娘を演じてはいるが、腹の中では何を企んでいるのかわからないところがある。

【拠所的解釈】

父親と同じで根は素直で良い娘である。偶然に父親の浮気現場を目撃してしまったこと、本人が使用していたかどうかは定かではないが、ドラッグの売人と関係があったことなども、父親と同じで世間的な立場を考えないうかつでおとぼけなキャラであるとも言える。見た目は地主という育ちの良さを醸し出しているが、無邪気ですっとぼけているところは、宮川家の血筋なのかもしれない。

 

と、このように毒物混入事件で死亡した4人の被害者にまつわる人物たちには、どちらとも意味が汲み取れるダブルミーニングが用意されています。これらをどちらの視点で世界を覗き見るかで、その見え方は変わってくるのです。そして "猜疑的" な世界はケイの視点、"拠所的" な世界は祐太郎くんの視点で描かれているところも秀逸なのです。

ケイの視点で世界を覗き見てみると、毒物混入事件は宮川を中心にそれぞれがターゲットを殺害したというのが真相であり、笹本親子は無実の罪を背負わされてこの世界から去って行ったことになります。しかし、今さらそんな真相を世間に訴えたところで世界が変わるとはケイは思っていません。消したいと思うなら消せばいい、ない事にしたいならない事にすればいい、オレはそれにほんのちょっとだけ手助けをしているだけ。これがケイのスタンスになります。

祐太郎くんの視点で世界を見ると、世間からの蔑みに耐えかねた笹本隆が、町民への報復のために事件を起こしたというのが真相になります。13年も前から犯罪者の息子として世間から蔑まされ、学校ではいじめられ、母親は過労と心労で死亡、児童施設に預けられても犯罪者の息子という蔑みの視線は変わりませんでした。耐えに耐えかねて毒物混入事件で町民へ報復するのですが、その結果、自分の思いとは裏腹に、父親はマスコミのターゲットにされた挙句、逮捕からの死刑判決を下され、事件で死亡した4人は報復するはずだった町民たちを却ってトラブルから救い出すことになってしまった。事の真相を知っていた父親は息子の身代わりであり、8年もの間、これは町の人間たちのせいだと訴え続けた。その声を聞きながら隆もひっそりと生き続けたが、父親の刑が執行される頃を見計らって、まるで足並みを揃えるように自殺をした。そんな悲しい世界が祐太郎くんには見えているようです。そして、祐太郎くんも、隆と同じように悲しい世界を見てきた青年なのかもしれません。

 

いよいよ来週は最終回だそうです。

ケイと祐太郎くんの過去がとうとう明らかになりそうです。

その結末が笹本隆と同じように悲しい世界でないことを願っています。